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親鸞の父・藤原有範〔論文〕

[登録カテゴリー: 歴史学



西山 深草 (にしやま しんそう)

【筆者】 西山 深草 (にしやま しんそう)

 

研究や論文の執筆にあたり、できるだけ資料や情報を共有して、能率を上げるようにとの目的で誕生した浄土宗深草派の研究者グループの共同ペンネーム。

●共同研究者 (あいうえお順)

   

足立昇龍、石原庸隆、石原敦仁、稲田順学、稲田廣演、稲吉満了、浦野慶春、加藤義諦、吉良 潤、

畔柳優世、小島英裕、小島淳祐、佐伯良雄、榊原慶冶、榊原慶弘、田中宗龍、團野和道、萩原勝学、

長谷川浩文、牧 哲義、山西俊享

 

 


 

 

「親鸞は頼朝の甥」

代表執筆者:吉良 潤


第一章 親鸞の父・藤原有範の出自

第一節 親鸞の父・藤原有範


(一)


現今の大方の親鸞研究者は、覚如が『本願寺聖人親鸞伝絵』(以下『親鸞伝絵』と略する)で述べたように、親鸞の父が藤原有範(ありのり)であることを認めておられる。 しかし厳密に考える研究者は藤原有範と親鸞が親子であることを明示する史料がないので、覚如が親鸞を日野家と結びつけるために語ったのかも知れないから、早急に断定できないと考えておられる。 中には一歩進めて、親鸞の父は藤原有範ではなくて、平有範ではないかと主張する研究者もおられる(司田純道著『親鸞伝研究序説』昭和四十四年、神戸市兵庫区西宮内町三一番地西幸寺発行)。 もしも親鸞の父の出自が確定していないのであれば、親鸞を論じる場合に、親鸞の行実の基礎的な部分があいまいになってしまう。 そして論考が抽象的になり、砂上の楼閣のような結論を得ることになりかねない。


最初に、親鸞の父がやはり藤原有範であることを論じる。


本願寺を創立した親鸞曾孫覚如の著書『親鸞伝絵』では、浄土真宗の宗祖親鸞は、「弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり」とある。 現在の多くの研究者は放埒人といわれた祖父・経尹(つねまさ)を入れて「弼宰相有国卿六代の孫、皇太后宮大進有範の子」と訂正して肯定している。


しかし、司田純道氏は「有信―宗光―経尹―宗業の縦の関係は各種の史料の上からも立証済であるけれども、経尹と範綱(のりつな)、有範の父子関係を立証する史料は見つかっていない」と説かれた。 そして親鸞の父有範は藤原有範ではなくて、平有範であろうと主張された(『親鸞伝研究序説』187ページ)。


確かに経尹と範綱の親子関係、また経尹の子息が有範であることを証明できる一次史料は今まで見付かっていない。 しかし経尹と範綱の親子関係および経尹と有範の親子関係を証明するに足る良質な史料が発見されていないとしても、そのことは二つの親子関係を否定するものではない。 あくまでも、証明されていないというだけのことである。


その一方で、親鸞の父有範が藤原有範ではなくて、平有範であるとする司田氏の説は果たして十分な根拠があるのだろうか。


現在、司田純道氏の主張をそのまま受け入れている研究者はないようであるが、十分に検討すべきであると考えている研究者は存在する。 たとえ司田説を支持する人がごく少数であるとしても、私たちはそれを無視したり、あるいは避けて通ったりすることはできない。 親鸞を正しく理解するためには是非とも解決しておかなければならない基本的問題である。


基本となる三つの系図


慈信房善鸞は、親鸞の長男であるか、次男であるか説が分かれ、またさらに大きな問題として、善鸞の母親は誰であるか?いまだ定説的見解はない。


第一に高田派本山専修寺蔵の『日野氏系図』である。 この系図は、昭和二十八年一月専修寺宝庫より発見されたもので、研究の結果鎌倉時代末期の記述と推定され、現在ではこの『日野氏系図』が親鸞俗称系図中の最古のものである。 (『真宗史料集成』第七巻502ページ)。


『日野氏系図』(専修寺蔵)は、日野南家の祖、宗光―二代経尹(親鸞の祖父)―三代範綱と、その弟の宗業・有範(親鸞の父)―範宴(親鸞)とすべて今日の研究の成果と同じく正しく位置づけられている。


第二に挙げるべきものは、西本願寺蔵の大麓休兎の署名と花押があり、その本人の直筆本と推定されている『本願寺系図』がある。 作者の大麓休兎とは九条稙通の雅号であると推定されております。 稙通は時の氏の長者で関白など最高の位を極めた人であり、しかも古典研究に熱心であり、また有職故実にも明るかった人といわれます。


『真宗史料集成』第七巻(昭和五十年同朋舎刊)14ページにはこの系図の作者大麓休兎すなわち九条稙通の奥書全文が掲載され、「この識語は、本願寺の開山親鸞が藤原氏の系統に連なる人であること、九条家の高名な祖先である月輪禅閤九条兼実の娘を娶っているという特別な由緒があること、ついで本願寺の現宗主証如が、彼の父関白九条尚経の猶子になっていることなどを表すためにこの系図を作った、との意を記したものである」と解説をされている。 左記にこの系図の善鸞を中心にその母、兄弟など問題の部分を、本願寺史料研究所で写真を拝見させて頂いたところにより示しますと、次頁図のようになります。 この系図を見ますと、親鸞さまの長男として初めて印信という名前が記され、その母、つまり親鸞の妻は月輪殿・九条兼実の娘であることを示している。 以下の慈信(善鸞房)、明信(信蓮房)、益方(道性)の男子三人と女子の計六名とも、母は同一の九条兼実の娘と記されている。


第三に、実悟編著の『日野一流系図』(実悟真筆本は、大阪府門真市願得寺蔵)がある。 この系図は前の九条稙通の『本願寺系図』より五年遅れて天文十年(1541)に、蓮如の第二三子である実悟(当時五十歳)が編著した。 現代史学から見て明らかに誤りとされるような部分もあるが、全体的にはなお最も信頼されている本願寺系図である。


この実悟の『日野一流系図』で、前の稙通の『本願寺系図』と違うところは、①親鸞さまの長男として示される印信がここでは範意で遁世後印信となったと記していること、②子供の順が、稙通系図では印信―慈信―明信―益方―女子―女子―女子とあり、しかも女子の名前は一切記入されていないのですが、この実悟系図では、範意印信―女子(小黒女房)―善鸞(慈信)―明信(栗沢信蓮房)―有房(益方)―女子(高野禅尼)―女子(覚信尼)と順序が違っていること、③さらに大きな違いとして稙通系図では、七名の子女すべてその母を月輪殿関白九条兼実の娘としているのに対して、この実悟の『日野一流系図』では、長男印信のみ母は月輪殿摂政九条兼実の娘とし、以下の小黒女房、善鸞、栗沢明信有房益方.高野禅尼、覚信尼との六名の母はすべて同じく兵部大輔三善為教の娘(法名恵信尼)とはっきり示していることであります。


その理由は、一つには、親鸞の子供の中、問題の範意と高野禅尼の二人を除けば他の五人の子供の名前は、親鸞の手紙か、妻恵信尼の手紙に直接名前が出ていること、しかも高野禅尼は他の小黒、栗沢、益方らの住まいしたと思われる越後のそれぞれの土地の近くに高野という地名があること。 二つには、『親鸞伝絵』『留守職相伝系図』『門侶交名牒』など、こうした歴史事実的なことで誤りがあれば直ちに反論されるような、つまり当時まだ古老が多く生存し嘘を書く訳にいかなかった、こうした書類の記事と、実悟の系図は矛盾した点がないこと。 三つには、先に記した親鸞俗称系図の最古のものといわれる専修寺蔵の『日野氏系図』とも矛盾がみられないことから、この実悟の『日野一流系図』は信頼のつよいものである。 (以下略)



親鸞の俗系を記したもっとも古い系図は『高田山蔵日野氏系図』(以下、『日野氏系図』)である。 この『日野氏系図』では問題の「経尹(つねまさ)」が範綱(のりつな)、宗業(むねなり)、有範(ありのり)の三兄弟の父として吊られている点で良質な史料といえるけれども、その成立年代に関しては異論があって確定していない。




第二節 『玉葉』文治二年(1186)十月十一日条の右兵衛督有範


『玉葉』文治二年(1168)十月十一日条に左のような記事がある。 『訓読玉葉』(高橋貞一氏著高科書店1989年)の第六巻214ページを引用する。


(前略)夜に入り定経来たり申して云はく、今夕除目の事、親雅豊前国を賜はり、その息親房を以てこれを申し任ず(即夜叙爵)。 この外任人無し。 又右兵衛督有範、左に遷るべき由これを仰す。 能保朝臣の申すに依りてなり。 (以下略)

藤原猶雪氏は『玉葉』文治二年十月十一日条の「右兵衛督有範」を「五条有範」すなわち「平有範」と解釈された。 しかし『玉葉』には、「五条有範」とも「平有範」とも記されていないから、この『玉葉』に記された右兵衛督有範が誰のことか、改めて検討する必要がある。


そのために、源頼朝、藤原(九條)兼実、藤原隆房、右兵衛督有範、藤原(一条)能保らの動静を略年譜にして以下に掲げる。


略 年 表

寿永二年(1183)10月9日朝廷は鎌倉にいる頼朝を本の官職である右兵衛権佐に復帰させた。
寿永三年(1184)3月27日条能保は左馬頭を兼務。 頼朝、正四位下右兵衛権佐となる。
 7月24日隆房、従三位右兵衛督となる。
文治元年(1185)4月27日頼朝従二位、右兵衛権佐。
 12月15日一条能保、右兵衛督となる。
文治二年(1186)4月27日頼朝従二位、右兵衛権佐。
 3月12日九条兼実、摂政となる。
 10月11日能保の進言により、九条兼実が右兵衛督である有範を左兵督に昇進させよと定経に命じた。
 12月15日藤原隆房、右兵衛督から左兵衛督に昇進した。
文治五年(1189) 頼朝は非参議従二位であったが、正月五日、正二位に昇った。
建久元年(1190)7月18日右兵衛督であった一条能保(44歳)は左兵衛督に昇進した。
 11月9日源頼朝(44歳)は権大納言正二位に任ぜられた。 頼朝は同月24日右大将を兼務した。 そして12月4日に大納言と右大将を辞職した。
建久二年(1191) 藤原隆房は右衛門督となり、藤原兼光(日野家の当主)が右兵衛督兼検非違使別当であった。

この経過を眺めると、源頼朝が関東にいながら朝廷を圧迫する実力を備えると、朝廷は右兵衛権佐・頼朝の上司である右兵衛督を頼朝の親族である一条能保(妻が頼朝の同母妹)と有範に押しつけたのである。 そして建久元年に源頼朝が初めて上洛することが確定すると、京都守護一条能保は右兵衛督を日野家嫡流の日野(藤原)兼光に譲って、自分は左兵衛督に就任した。 九条兼実以下の公家は、やはり右兵衛佐・源頼朝の上司は、八幡太郎義家以来、清和源氏と姻戚関係にある日野家の当主が就任するのが無難であると判断した。 そして上京した頼朝が右大将に就任した時に、この「右兵衛督問題」は解消した。 なぜなら近衛右大将は左兵衛督や右兵衛督よりも遙かに上位の官職だからである。


上に見たように、右兵衛督の職は転々とたらい回しにされた。 この一連の人事は、源頼朝の力によって摂政になったばかりの九條兼実が、源頼朝の実の妹を妻にしていた一条能保の進言によって振り回されていたことを語っている。 また、有範が一時的にせよ右兵衛督になったとすれば、有範が異例の優遇を受けたことを示している。 なぜなら『公卿補任』を通覧すると、平安末期から鎌倉初期において、右兵衛督あるいは左兵衛督は公卿クラスの公家が就任することが慣例になっていたからである。 すなわち右兵衛督有範は一条能保ほどの近親ではなかったけれども、源頼朝の縁者であったと思われる。 また藤原(一条)能保とともに頼朝の上司になった右兵衛督有範は藤原有範としてよいと思われる。 なぜなら『親鸞伝絵』、『日野氏系図』、『日野一流系図』と一致しているからである。


しかし有範は一条能保のように頼朝の威光によって、栄達することを望まなかったらしい。 また有範は右兵衛督に留まって、左兵衛督に昇進しなかったようである。 覚信尼が「右兵衛局」という女房名で久我太政大臣通光に仕えたと『略系図』〈日野一流系図抄〉(『改訂親鸞聖人行実』教学研究所編 東本願寺 172ページ)に記されていることがその根拠となる。 つまり覚信尼は父方の祖父藤原有範の官職名を自らの女房名として用いたからである。 「右兵衛督(うひょうえのかみ)の局(つぼね)」では呼びにくいので、自然と「右兵衛の局」と短くなったのであろう。


藤原有範は公卿ではなかったから、『公卿補任』に記録されなかった。 要するに、九条兼実が記したことは、朝廷の短期間の人事移動を日記『玉葉』に書いただけで、便宜的な一過性の人事であった。 しかし兼実が決裁すべき数多い案件のなかで、このことを日記に記録したことは、頼朝と朝廷が協調していくうえでゆるがせにできない人事であったからである。 このことは藤原有範が一条能保ほどには頼朝と密接な関係はなかったけれども、有範が頼朝の親類縁者のひとりであったことを示唆する。



この『玉葉』の記事から、次の結論が導かれる。

  1. この有範なる人物が公家階級に属していたことは確かであろう。 九条兼実の意中の人物右兵衛督藤原(日野)有範は平有範のような武官ではなくて、文官(公家)である。

  2. 右兵衛督日野有範は一条能保ほど頼朝と近縁ではないが、源頼朝の縁者である。



第三節 文治四年(1188)の三鈷寺文書


次に東京大学法学部法制史資料室所蔵の三鈷寺文書の中から下記の二点を取り上げる。


A6 右大臣《藤原実定》家政所下文
右大臣家政所下 鶏冠井殿寄人沙汰人等
 可早宛行故三位殿御月忌并御忌日料田参町事
  神饗里
   三十二坪五段小《三斗代貞光》同里三十四坪六十歩《三斗代貞光》
  榎小田里
   三里四段《五斗代貞光》同里十一坪六段内《五斗代二段貞光》
  田辺里
   十九里四段半《三斗代国利》
已上御月忌料
  神饗里
   二十六坪六段六十歩《四斗代貞光》同里二十七坪三段《四斗代貞光》
  弓絃明(羽ヵ)里
   八坪三百歩《四斗代貞光》
    已上御忌日料
 右、件田参町、為故三位殿御月忌并御忌日
 用途料、所被割宛也、寄人沙汰人等宜承知、不可違
 失、故下、
文治四年四月 日
 令大皇太后宮大属菅野朝臣 大従主水令史清原  (真人ヵ)
 別当散位藤原朝臣(花押)

A7 預所藤原某下文
 『預大夫進副下文 文治四年五月一日到来』
 下 鶏冠井殿寄人沙汰人等
 可令任政所御下文状致沙汰
 故三位殿御月忌并御忌日料田参
 町事右、子細具見干御下文状、
 守彼状可致沙汰之状、所仰
 如件、以下、
  文治四年四月 日
 皇太后宮少進藤原朝臣(花押)

文書「A7」の「預所藤原某」と「預大夫進」と「皇太后宮少進藤原朝臣」は同一人物であろう。
つまり文書「A7」とは、鶏冠井庄の預所である皇太后宮少進藤原朝臣が鶏冠井庄の領家である藤原実定の別荘鶏冠井殿の寄人および沙汰人に命令した文書である。


「A7」をできるだけ分かりやすく読み下してみる。


 預所(あずかりどころ) 藤原某の下し文(くだしぶみ)
 『預かり大夫進(だいぶのしん)の副(そえ)下し文 文治四年五月一日到来す』
 鶏冠井(かいで)殿(との)の寄人(よりうど)・沙汰人(さたにん)等に下(くだ)す。
 政所(まんどころ)の御(おん)下し文状に任(まか)せて沙汰を致せしむべし。
 故三位(こさんみ)の殿(との)の御月忌(おんがっき)ならびに御忌日(おんきにち)の料田(りょうでん)
 三町の事 右、子細は御下し文状を具(つぶさ)に見て
 彼の状を守って沙汰を致すべきの状、仰(おお)す所
 件(くだん)の如し、以て下す。
  文治四年四月 日
 皇太后宮少進藤原朝臣(花押)

文書「A6」と「A7」に見える「鶏冠井」を『京都府の地名』(平凡社298ページ)で調べると、鶏冠井村(かいでむら)現在京都府向日市鶏冠井町が見付かる。 その記事の一部を下に抜粋する。


向日丘陵東側の台地から桂(かつら)川の氾濫原に位置する。 西は向日町、北は白井村・西土川村(にしつちかわむら))。 古代の長岡宮の大極殿・八省院・内裏の所在地である。 条里は九条蝦手(鶏冠井)里・弓絃羽(ゆずりは)里にあたる。 弓絃羽里は永久元年(1113)一二月日付玄蕃寮牒案(柳原家記録)が初見で、十一ヵ坪に散在する六町七反一八〇歩が高畠四箇所陵戸田とされている。 蝦手は延久四年(1072)九月五日付の太政官牒(石清水文書)には「蝦手井」と記され、荘園を停止された石清水(いわしみず)八幡宮寺領の一としてみえる。 蝦手井の読みは不明であるが、カエルテイ、あるいはカテイであろう。 安元二年(1176)鶏冠井殿が現れ、住人がその寄人になっており、安貞二年(1228)を初見に徳大寺家領鶏冠井庄となる(三鈷寺文書)。 鎌倉時代前期、九条道家が設立した小塩(おしお)庄の莊田は当村にもあり、大永二年(1522)の小塩莊帳(寛文十年写、九条家文書)には「かいて村」として九筆計一町一段六〇歩が記される。 久我家文書「久我莊名田并散田等帳」所載の条里指図(室町中期)には、弓絃羽里の下に「カイテ井」と記す。 その左側は蝦手里で、カイテ井が弓絃羽里まで広がっていることを示すものであろう。 (以下略)

この『京都府の地名』の記事と、文書「A6」と「A7」の藤原実定(徳大寺)、鶏冠井殿寄人、弓絃明(羽ヵ)里などの人名と地名などが共通することから、『京都府の地名』の「鶏冠井村」の歴史は、文書「A6」および「A7」と同一の地域を説いたものといえる。


まず文書「A6」「右大臣藤原実定(さねさだ)家政所下文(まんどころくだしぶみ)」の内容の要点を調べると、右大臣家の政所、すなわち文治四年に右大臣であった人物の家政機関である政所(まんどころ)が、その右大臣所有の鶏冠井殿と呼ばれる別荘を管理する寄人とその部下として働く沙汰人に命令したものである。 何を命じたのかというと、「故三位殿」の御月忌ならびに御忌日の費用をまかなう田三町に割当られた年貢米を早く供出せよというものである。 御月忌料として、神饗里、榎小田里、田辺里の収穫、御忌日料としては神饗里、弓絃明(羽ヵ)里の収穫が割り宛てられている。 そしてその分量である斗代と責任者の名前である「貞光」および「国利」の名が記されている。 つまり督促状の明細である。


つぎに『官職要解』(和田英松・所功校訂 講談社学術文庫)の「六二 摂政(せっしょう)関白(かんぱく)家司(けいし)」(264ページ)を参照して、「文書A6」に登場する人物の相互関係を解明する。


「政所(まんどころ)」摂関家や幕府の庶政(庶務のこと)を掌(つかさど)るところで、政所から領地の荘園などに令達する書付(かきつけ)を政所下文(まんどころくだしぶみ)といった。 長官が別当(べっとう)で、下に令(れい)、知家事(ちかじ)、案主(あんじゅ)、大従(だいじょう)、少従(しょうじょう)、大書吏(だいさかん)、少書吏(しょうさかん)などの役があった、別当、令は大かた四位、五位のものがなったのである。 また家司(けいし)とも上家司(かみけいし)ともいった。 (中略)知家事(ちかじ)、大従(だいじょう)、少従(しょうじょう)は六位、七位のものがなった。 これを下家司(しもけいし)という。

「文書A6」に花押した別当散位藤原朝臣が鶏冠井殿管理の長であるが、誰であるかは判らない。 しかし右大臣藤原実定でないことは明らかである。 なぜなら『公卿補任』をみると、実定は文治四年に右大臣という顕職に付いていたから、官職に就いていない「文書A6」の散位の別当ではない。 右大臣藤原実定(保延五年(1139)~建久二年(1191))は大皇太后藤原多子の同母兄である。 鶏冠井殿は彼の別荘であった。


令大皇太后宮大属菅野朝臣とは、当時の太皇太后藤原多子に大属(だいさかん)として仕えた菅野朝臣が同時に藤原実定の上家司(かみけいし)として、鶏冠井殿の別当の下の令となっていたものである。


大従主水令史清原真人とは、主水令史である清原真人が同時に実定に仕える下家司(しもけいし)・大従となっていたのであり、令である菅野朝臣の部下であった。



次に『岩波古語辞典補訂版 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編』を参照する


あそん【朝臣】《アソミの転。 中世、促音化してアッソンとも》


  1. (かばね)の一種。 天武天皇十三年に定めた八等の姓の第二位。 また、貴族男子の称。 「右大将藤原―の四十賀しける時」〈古今三五七詞書〉▽平安時代に位署の法が定まり、位によって、その呼び方も異なった。 たとえば三位以上は「藤原朝臣」「橘朝臣」のように、氏に姓(かばね)をつけ、敬意を表して名を言わない。 四位の人には、「業平朝臣」のように名に姓をつける。 五位は「藤原朝臣某」のように、氏・姓・名の順にする。 六位以下は「藤原某」などと、氏・名を言い、姓を言わない。

  2. 貴族男子を親しんでよぶ語。 「その姉君は、―の弟や持たる(源氏帚木)」

この【朝臣】の解説もって文書A7を分析する。 「預所藤原某下文」は、その実定の家司であった預所の藤原某が「A6」の命令書を実行するように、鶏冠井殿の寄人および沙汰人たちに指示したものである。 「預所」とは領家(ここでは徳大寺実定)の荘園(ここでは鶏冠井庄)を預かって運営する家司である。 「文書A6」の 「別当散位藤原朝臣」は徳大寺実定の別業(別荘のこと)である「鶏冠井殿」を管理運営する執事である。 一方、「文書A7」にみえる「預所藤原某」「預大夫進」「皇太后宮少進藤原朝臣」は同一人物であって、鶏冠井殿を包含する「鶏冠井庄」全体を徳大寺実定から預かって管理していた。 すなわち、一対の「文書A6」と「文書A7」は鶏冠井殿の寄人と沙汰人らに対して、鶏冠井殿の管理者である別当と鶏冠井庄全体の管理者である預所が、早く故三位殿の追善法要の料としての年貢米を供出せよと督促した文書である。 そして莊田全体を管理する預所が皇太后宮少進藤原朝臣であることがわかる。


文治四年の皇太后は後白河上皇の后である藤原忻子(ふじわらのよしこ)であった。 彼女は藤原公能の娘で、藤原実定の姉妹であった。 忻子は承元三年(1209)八月十三日に七六歳で崩じたから、文治四年(1188)においては五十五歳であった。


次に故三位殿とは誰のことか調べる。 『京都府の地名』の鶏冠井庄(かいでのしょう)(299ページ)をみると、幸いにも既に「三位殿」が「徳大寺実定祖母」と特定されている。 これを手掛かりに「三位殿」がどういう人物なのか、調べる。


藤原実定の家系を『尊卑分脉』(第一篇121~179ページ)から抄出する。


公実(従二位権大納言)――実能(従一位左大臣)――公能(正二位右大臣)――実定(正二位左大臣)――公継(従一位左大臣)――実基(従一位太政大臣)

『尊卑分脉』の記載をたどって、「徳大寺実定祖母」である「三位殿」が実定の父方の祖母なのか、母方の祖母なのか調べてみた。 すると「三位殿」とは中納言顕隆の女(むすめ)であって、彼女は実定の父・藤原公能の母であり、また、実定の母・中納言藤原俊忠の女・豪子の母でもあった。 つまり実定の父方の祖母と母方の祖母は同一人なのである。 実定がたいそう丁寧に祖母の追善法要を勤めている理由がわかる。 (系図)


藤原顕隆は葉室一流の祖であって正三位中納言であったから、彼女は父の官位でもって「三位の殿」とよばれたのである。 藤原顕隆は中納言になったが大臣にはなれなかった。 家柄の限界であった。 しかし彼は鳥羽上皇に近侍し「夜の関白」とよばれて権勢を振るった。 すなわち文治四年(1188)ころ、「夜の関白」の娘を両親の母とする徳大寺実定が鶏冠井庄の主である領家であった。


角田文衛氏は『国文学』「後宮のすべて」第二十五巻一三号(学燈社)において、院政時代に入ると天皇・上皇の乳母の夫、子、父はいわゆる『院の近臣団』の中核をなしていたことを指摘し、六条修理大夫・藤原顕季、『夜の関白』・藤原顕隆とその子・顕頼、少納言入道信西こと藤原通憲などを顕著な例に挙げられた。


さて、皇太后宮少進は皇太后宮大進および皇太后宮権大進よりも下位の官職である。


和田英松 所功校訂『新訂官職要解』(講談社学術文庫)の官位相当表をみると、中宮識の少進は従六位下であり、大進は従六位上である。


安元二年(1176)は四人の院が亡くなるという希なことが起こった。 六月十二日に高松院(鳥羽院御女)、七月八日に建春門院(後白河院后)、同十七日六条院(後白河院御孫)、八月十九日に九条院(近衛院后)崩御である。 特に清盛の妻時子の妹である建春門院が三十五歳で亡くなったことは、後白河院と平清盛の間の緩衝機能が失われたことになり、両者の軋轢が増大した。


このころの後宮を調べると、太皇太后は藤原多子(二代の后(きさき))であり、皇太后は藤原呈子であった。


康治元年(1142) 藤原宗業生まれる。 (この年親鸞の母・吉光女生まれるか)
仁安三年(1168)3月20日平滋子皇太后となる。 (藤原有範の兄・宗業二十七歳)
嘉応元年(1169) 月 日皇太后平滋子を建春門院となす。
承安二年(1172)2月10日皇后藤原忻子皇太后になる。
 2月10日中宮藤原育子皇后となる。
 2月10日平徳子清盛の娘、中宮となる。
承安三年(1173)8月15日中宮藤原育子崩(この年親鸞生まれる)
安元二年(1176) 高松院、建春門院、六条院、九条院の四女院崩御。
文治二年(1186)10月11日九条兼実、右兵衛督(従四位下相当)有範を左兵衛督に昇進させよと五位蔵人勘解由次官定経に命じた。 (定経、吉田経房の子息後白河院院司)
文治四年(1188) 藤原某は皇太后宮少進であった。
文治五年(1198)1月6日左兵衛督兼検非違使別当・藤原隆房は正三位に上り、七月一〇日権中納言となった。
文治六年(1190) 藤原隆房の官職は同じであった。
建久二年(1191) 藤原隆房は右衛門督となり、藤原兼光(日野家の当主)が右兵衛督兼検非違使別当であった。
承元三年(1209)8月12日皇太后忻子崩御。

上の表からわかるように、藤原某は文治四年(1188)には皇太后宮少進に任じられている。 その後は一貫して藤原忻子に仕えていたようである。 そして藤原忻子が死去してから出家したと考えられる。 中世においては、自分が長年仕えた主君が亡くなったとき、出家する人が多かった。


覚如の『親鸞伝絵』は親鸞の父・藤原有範が皇太后宮大進であったと述べている。 皇太后宮大進は有範の最終的官職であって、文治四年(1188)の皇太后宮少進は、彼が大進になる前の官職であったと思われる。 したがって文治四年(1188)四月に皇太后宮少進であった藤原某は『親鸞伝絵』における親鸞の父・皇太后宮権大進藤原有範の若き日の姿であったといえる。



第三節の結論


鳥羽天皇と二条天皇の二代の皇后となった藤原多子の実兄が藤原(徳大寺)実定である。 徳大寺実定が鶏冠井庄の領家であり、別荘鶏冠井殿の主であった。 親鸞の父・藤原(日野)有範は皇后宮職として後白河天皇の皇后藤原忻子に仕えた。 そして忻子が承元三年(1209)に皇太后として崩御するまで継続して仕えた。 最終的に皇太后宮大進になった。


一方で日野有範は源頼朝の縁者として、一次的に右兵衛督になったことがあった。




第四節 『山槐記』建久三年(1192)四月十九日の藤原有範


畑龍英氏が著書『親鸞を育てた一族―放埒の系譜―』(教育新潮社)の第九章「有範は叫ぶ〝ドッコイ私は生きている″」(231ページ)で説かれたことを左のように要約する。


『山槐記』建久三年四月(筆者注 三月十三日、後白河法皇崩御)十六日の条に、大外記師直(もろなお)が来て一九日に平座政(ひらざのまつりごと)を行うと告げた。 また言葉を継いで、法皇の中陰以後の杖議に関して主殿頭(とのもりのかみ)有範(光遠出家の後任者)が平座が定法であると証言したことを伝えた。 この主殿頭(とのもりのかみ)有範が日野(藤原)有範であると断定する理由として、つぎの二点を挙げる。

  1. 大外記中原師直が主殿頭有範の見解を信頼したことは、この有範が儒家の名門である日野家の出身であるからである。

  2. この有範は主殿頭光遠(こうおん)が出家したときの後任として主殿頭に任官した。 光遠は藤原(日野)有範の兄である範綱の親友であり、ともに後白河法皇の近臣であることを理由にして、それぞれ二度にわたって解官(解任)と還任(復任)を繰り返した。 光遠と範綱が後白河法皇の側近であるということを理由に首にされたとき、範綱の弟である有範が光遠の後任になることは、よくある話である。 (要約)


畑龍英氏は右のように考察されて、左のように結ばれた。


さて有範の史料として発見できたものは、以上がすべてである。 このあと有範は承元三年八月十二日に皇太后忻子(きんし)の崩御にあい、権大進(ごんのだいしん)の官職を解かれ、さらに数年ののちに、息男親鸞の赦免を見とどけたものと推量する。 そのころには従五位下から上に進み、さらに正五位下の叙爵を受けて間もないころ、出家の素懐を遂げ、三室戸へ隠棲したにちがいないとわたくしは推定するのである。

畑龍英氏は後白河法皇の側近である藤原範綱と主殿頭(とのもりのかみ)光遠が法皇の崩御に際して出家したとき、親鸞の父・藤原有範は光遠の後任者として主殿頭に任官した。 また有範はながらく皇太后藤原忻子に仕え、崩御に際して出家したと推定された。




第五節 建久五年(1194)の遣迎院阿弥陀如来像像内交名


青木淳氏が編集・解説された日文研叢書19『遣迎院阿弥陀如来像像内納入品資料』は建久五年頃に納められたものである。 その「結縁交名」の一部分を抜粋すると、⑦2(交名帖の綴り7の第2紙のこと)に「藤原宗業」と親鸞の夢と関係があるといわれる『覚禅鈔』の著者「覚禅」の名が見られる。


⑦3(交名帖の綴り7の第3紙)は特に重要である。 その後半部を掲げる。


14行平□安中原氏平成綱藤原氏□□源氏夜叉藤原有範大江氏
15行僧観真僧浄円平氏大江□成大江師成僧永尊永□
16行永力僧俊成僧教寂同母僧快尋僧源信僧定心
17行僧範母長快快円実印藤原信綱同祖父同範実
18行同範資惟宗□□円□□浄快律師□□河内照慶晴□
19行玄能増快同□隆海重俊在原俊時律師実遍僧永定霊
20行大江持□同持長文殊□法師時□尊雅律師時雅
21行河内□長□僧兼円僧祐豪□阿弥陀仏橘氏清原経然□□□□
22行平有直尼妙法藤原氏藤原氏藤原氏藤原氏父母
23行藤井□□賢水房亀王平氏□見尼平忠直平有実
24行僧□□□□□母尼乳母成阿弥陀仏同又同母
25行僧俊宗惟宗氏同守方同吉守祖父浄祐円□□
26行一郎平氏女徳王定慶末重安芸殿藤原□
27行□□仏定快尼妙法尼妙法□□氏女□正道尼清浄

建久五年に成立した遣迎院阿弥陀如来立像に納められた交名に見いだされる親鸞に近縁の人々の姓名等はきわめて興味深い。 それらの人々を列挙すると、ゴシック体で傍線を引いた人物「藤原宗業」「藤原有範」「僧観真」「藤原信綱」「同祖父(筆者注 経尹(つねまさ)か)」「同範実」「同範資」の七名は『尊卑分脉』の貞嗣卿孫の抜粋部分(図2)に記載されている。


  1. 「藤原有範」は親鸞の父・日野有範であろう。 その直前の「源氏夜叉」は源氏に属する「夜叉」という名の女性である。 この女性は源義朝の娘で、頼朝が平氏によって逮捕されたときに絶望して自決したといわれる人物である可能性が大きい。 すなわち藤原有範は源氏と関係が深いことを示唆している。 (この点は第三章で論じる)

  2. 「藤原宗業」は従三位に上った儒者で有範の次兄であろう。

  3. 「観真」は建久三年に後白河院が崩御すると出家した藤原範綱の法名である。 後白河法皇の法名は「行真」であるから、その「真」の一字を頂戴して「観真」と号したに違いない。

  4. 「藤原信綱」は「観真」こと「藤原範綱」の息男であろう。

  5. 「同祖父」とは、「藤原信綱」の祖父である「藤原経尹」であろう。 放埒人であった経尹は交名の中においても名を隠蔽されていると思われる。

  6. 「同範実」すなわち藤原範実は『尊卑分脉』の貞嗣卿孫に範綱(法名観真)の子息として吊られている(図2)。 藤原信綱の弟であろう。

  7. 「同範資」は藤原範資で範綱の末の子息であろう。

  8. 「筑前」あるいは「筑前殿」とは一三歳の恵信尼の女房名にちがいない。

  9. 「当今」とは天皇のことで、ここでは後鳥羽天皇を意味する。

  10. 「殿下」は摂政のことで、「九条兼実」を指す。

しかしこの交名帳に当時の親鸞の法名である「範宴」は見られない。 藤原有範の息男である親鸞はこの時期、慈円の弟子であったから結縁していないと考えられる。 筑前(後の恵信尼)をはじめ、親鸞の父と二人の伯父の名があることは、『親鸞伝絵』と『日野氏系図』および『尊卑分脉』の記述がかなり正確であることを証するものである。 すなわち建久五年に成立した『遣迎院阿弥陀如来像像内納入品資料』のなかの交名帖という一次史料によって親鸞の父が検非違使の「平有範」ではなくて、やはり藤原(日野)有範という公家であったことは確実であるといえる。


最も重要な所見は、恵信尼(筑前局)が親鸞に先んじて法然の信者であったという事実である。 このことは恵信尼書簡の研究に基づいて、恵信尼は親鸞よりも早く法然の弟子になっていたという先行研究を裏づけている。


次の(図2)の系図は『尊卑分脉』貞嗣卿孫の一部分の抜粋である。 (図2)の「範光」が実在したかわからないが、中納言岡崎範光がまぎれ込んでいるのかも知れない。


第五節の所見は実悟の『日野一流系図』における当該部分と一致する(図3)。



(図2 / 貞嗣卿孫の一部分)




経尹─┬─ 重政     
   │          
   ├─範綱─┬─範光
   │    │    
   │    ├─信綱
   │    │    
   ├─宗業 ├─範実
   │    │    
   │    └─範資
   │        
   └─有範───尋有


(図3 / 実悟編 日野一流系図の一部分)






宗光───経尹─┬─範綱───信綱───広綱
        │             
        ├─宗業───範業     
        │             
        │             
        └─有範─┬─範宴───範意
             │        
             └─尋有     






第六節 『明月記』元久二年(1025)四月十日の相模権守有範と承元元年(1207)正月十四日の従五位下有範


畑龍英氏は下のように、藤原有範が元久二年四月十日に相模権守であったことを論じられた(『親鸞を育てた一族―放埒の系譜―』)。


光遠の出家の後任として、主殿頭に有範がついた年より十三年のあとである。


『明月記』の元久二年四月十日の日記に、有範のつぎの記事が登場する(中略)。


十日。 天曇る。 朝後に雨降る。 夕、風烈し。 今日、祭の除目と云々。 毎月、納言以下の人々を任ぜらる。 昇進、流水よりも急なり。 哀しきかな、衰老沈淪の身、甲子同じの人、悉く泉に帰す。 相慶(そうけい)来る。 已講(いこう)又来たりて談(かた)る。 (このあとに六十一人の除目、九人の叙位、二人の使宣旨の大間書が載っているが、必要なふたりだけを抄記する)


相模権守藤有範


正四位下菅原在高(淳高治国の賞)(第二巻・173―174ページ


有範は相模権守に任じている。 あるいは後鳥羽院の受領(ずりょう)近臣であった可能性も考えられるがこれだけの記録ではなんともいえない。 菅原在高(すがわらのありたか)とは、前にもふれておいたが、菅原在茂(すがわらのありしげ)の子で、カッコ内の淳髙(あつたか)の父である。 範綱の末女が淳髙の妻室にとついでいることも既にご紹介したことである。


元久二年四月の祭の除目で相模権守に新任された有範が、二年ののちにまた除目を受けることになる。 その一週間ほど前には兄の宗業も叙爵されているので順次に説明したい。


『訓読明月記』承元元年正月の記である。


六日。 天晴陰。


(最初に七十九人の叙位者が列記されているが、関係者だけを抄出する)


従四位上藤宗業(むねなり)


従四位下源仲章(なかあきら)


巳の時許りに聞書を見、少々賀札(がさつ)を送る。 或人云う、博陸叙位勘文を取り忘れて、参内し給う。 懇念叙位、勘文無しと云々。 (第二巻・268ページ)


十四日。 天晴る。 日出づるの後、八条院御行と云々。 聞書(ききがき)を臨昏に見る。 心神(しんじん)極めて悩む。 憂火(うれひ)の然らしむるか。 ・・・・・・・従五位下有範(元の如し)・・・・『訓読明月記』の前後を詳細に検討したが、二年前の任相模権守以外に有範の名はまったく見あたらなかった。


(中略)


わたくしなりの判読はつぎの通りである。


まず従五位下有範とあって、姓は省略されている。 公卿日記の姓省略にはきまったルールがある。 前記者と同姓の場合に省略するのが第一のルールで、そのときは「同」といれることもある。 第二のルールは藤原姓の場合に省略するのが普通で、源姓や平姓その他の姓で名のみをしるされることは先ずない。 藤原はまた藤とのみ略記されることも少なくない。 この二つのルールのどちらに照らしても、有範は藤原姓であることは明らかである。


私たちは畑龍英氏の見解を承認する。 このあとも畑氏はさらに論考を展開されているが、私たちなりに論考したい。 石井進氏は著書「鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて」(平凡社選書108)の中で左のように述べられた。


鎌倉時代末、両国司といえば、武蔵守・相模守の両者をさし、幕府の執権・連署の代名詞として通用していた。 それは両国の守がほとんど北条氏一族中の最有力者によって独占されていたことを示している。 それだけではなく、鎌倉時代のごく初期から終末まで続けて、相武両国は将軍家の知行国だった。 知行国とは平安時代後期から始まった制度で、高位の貴族たちに各国の支配権・収益権を与えて知行国主とし、国主は自分の近親者を国守に任じ、別に代理人の目代を派遣して国を支配し、一国からあがる収益の大半を自らのものとする制度であった。


すでに見たように、頼朝は挙兵以来、東国の国衙や荘園・公領の事実上の支配をおしすすめていたが、十月宣旨によって、その支配の実質的承認をかちとるとともに、東国内の諸国を自分の知行国として承認させ、より完全な支配を固めようとはかった。 そのなかでも武蔵国は元暦元年(1184)六月から、相模国は文治元年(1185)八月から、ながく連続して将軍の知行国であった。 とくに相模国は文治五年一二月に、「永代の知行」みとめられている。 (184ページ)。


(中略)


北条氏の勢力伸張


頼朝の死後は長男で、十八歳の青年の頼家がただちにあとをつぎ、二人目の鎌倉殿となった。 だがまだ若年の頼家の手腕に不安を感じたのか、側近の老臣たちは、頼朝未亡人の北条政子とはかって、頼家による直接の訴訟裁断を停止し、一三名の元老や武士の代表者たちが合議して裁判をすることに定めた。 この十三名は、当時の幕府の中枢部にあった有力者たちと考えてよいが、その顔ぶれは、a 頼朝の側近の官僚層――大江広元・三善康信・中原親能・二階堂行政。 b 相模出身の武士――三浦義澄・和田義盛・梶原景時。 c 武蔵出身の武士――比企能員・安達盛長・足立遠元。 d 伊豆出身の武士――北条時政・同義時。 e 下野出身の武士――
八田知家。 以上であり、武士団の代表としては、相模・武蔵の出身者が相ならんで、もっとも有力であることが一目でわかる。 これまで独裁者頼朝のかげにかくれていた東国武士団の実力者たちのなかでも、相模・武蔵の武士たちの比重の高かったことが、よくうかがえるのである(187~188ページ)。


だが亡き父のあとを追って幕府の主人たろうとする頼家が、だまってその措置をうけいれるはずもない。


(中略)


やがて鎌倉の地を舞台にした数多くの陰謀や血みどろの抗争がくりひろげられ、幕府の実権は鎌倉殿の手からはなれて、北条氏の執権政治へと移行して行く。 この過程で幕府開創以来の相武(相模と武蔵のこと)の有力武士の多くはほろび去り、頼家もまた鎌倉殿の地位を追われてしまうのである。


この抗争のなかで最初に血祭りにあげられたのが独裁者頼朝のお気に入りの家臣、侍所の幹部として抜群のはたらきを示した梶原の景時である。 頼朝の死後、一年もたたぬ正治元年(1199)秋、景時は頼家の弟の実朝を鎌倉殿にしようとの陰謀があると頼家に密告したが、かえって仲間の東国武士六十数名から景時弾劾の連判状をつきつけられて失脚し、鎌倉から追放された。 一たんは一族とともに相模の一宮(寒川町付近)の館に立てこもった景時は、翌年早々、朝廷と結んでの大がかりな反乱を計画して上京しようとする途中、駿河国清見(きよみ)関(静岡県興津市)で付近の武士の手にかかってあえない最期をとげた。


(中略)


やがて建仁三年(1203)九月、病気にかかっていた頼家が危篤状態におちいると、事態は急転する。 政子や大江広元らの支持をとりつけた北条時政は、まず比企能員を暗殺し、ついで鎌倉比企ヶ谷の屋敷にたてこもった一族や、頼家の子の一幡(いちまん)を皆殺しにした。 そして頼家を鎌倉殿の地位から追って伊豆の修禅寺に幽閉し、間もなく暗殺してしまう。 鎌倉殿としては、まだ十二歳の実朝を立て、時政と広元の二人がならんで政所別当となり、幕府の実権を握ってしまったのである。 いわば時政によるクーデターであり、御家人の所領安堵の政務も、時政一人が署名する下知状という新形式の文書によって行われるようになった。


(中略)


だが時政は調子に乗って少々やりすぎた。 後妻の牧ノ方(まきのかた)にあおられて今度は実朝を殺し、代わりに牧ノ方の愛娘の婿で源氏一族、かっては頼朝の義理の子にもなっていた平賀朝雅(ともまさ)(少し前までは武蔵守をつとめていた)を鎌倉殿に立てようとしたのである。 鎌倉武士の代表として名の高い武蔵の畠山重忠もまた、この陰謀にまきこまれて一家ともに殺され、ついでこれは悪質な讒言のためだったとして、同族の稲毛重成や榛谷(はんがや)重朝らが殺されてしまった。


だが時政の今度の陰謀は、あまりにもやりすぎだった。 子の義時は政子と相談して三浦氏をだきこみ、クーデターをおこしてついに時政を失脚させるとともに、当時、京都守護だった平賀朝雅を討ち滅した。 ここに至ってはさすがの時政もなすすべなく、出家して伊豆に監禁される身となってしまった。 さきに頼家の失政をついてかれを追放した時政も、東国武士団の意志をかえりみない、強引な権力集中をはかった時には、いとも簡単に失敗してしまうのである。


父時政を追放してこれに代わった北条義時は、冷徹果断、しかもよみの深い慎重な政治家であった。 彼は時政の性急な権力独占策が多くの反発を招いたことをよく知っていただけに、柔軟な政策をとり、実朝と政子とをつねに表面に立て、大江広元らの側近官僚層との連携をさらに密にしながら、東国武士たちの信頼獲得につとめた。 大江広元ひとりの署名による下知状という文書形式が一時すがたを消すのも、そのあらわれである。 また「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」という大原則を明らかにしたのも、御家人たちの所領保護の要望に応えるためである。


だが一方、義時は北条氏の勢力を確立し、対抗する有力武士団の力を削るためにはあらゆる努力を惜しまず、どのような機会をものがさなかった。 元久元年(1204)、義時はついに相模の守となり、畠山重忠はじめ旧来の有力豪族の何人もを滅ぼした武蔵には、弟の時房が承元元年(1207)に守となった。


以上の政治的情勢と親鸞の父・藤原有範および子息・親鸞の行動を関連づけてみる。


元久元年(1204)三月六日、北条義時は相模守に任じられた。 そして元久二年(1205)四月十日に藤原有範は相模権守になった。 それから二年後の承元元年(1207)正月十四日の除目においても、従五位下の有範は相模権守であった。 そして北条義時は建保五年(1217)十二月十二日、陸奥守に転じるまで、相模守であった。 そうすると藤原有範は北条義時の部下になっていたのである。 もっとも、権守は赴任せずに都にいて給料を貰うだけである。 ちなみに、親鸞・恵信尼夫妻が信蓮房を連れて関東に旅立ったのは建保二年(1214)のことであった。


なぜ藤原有範が後鳥羽上皇を隠岐に流すというような破天荒なことやってのけた北条義時の部下になったのか、そのわけを探すと藤原有範が源義朝の娘と結婚していたという仮説と整合する。 朝長は鎌倉に大きい館を所有していた。 藤原有範は義朝の次男・朝長の同母姉(吉光女)を妻としていたから其の縁で相模権守になったのである。 この人事は相模守北条義時の立場からも、朝廷の立場からも適切なものであった。


なお親鸞の母・吉光女が歴史上の実在人物であることを第三章で論じる。




第七節 親鸞編著『西方指南抄』における大進公としての藤原有範


後白河天皇の后であった藤原忻子は承安二年二月十日、高倉天皇の立后節会が行われたとき、三九歳で皇后から皇太后になっていた。 承元三年(1209)八月十二日、皇太后藤原忻子が七六歳で崩御した。 忻子に仕えた皇太后宮権大進・藤原有範は主君の死に際して出家した。 兄範綱が後白河院崩御により出家したことと同じである。


康元元年(1256)十月十三日、親鸞八十四歳のとき書写された『西方指南抄』に、


「建保四年四月二十六日薗城寺長吏公胤僧正之夢ニ、空中(ソラノナカ)に告ゲテ云、源空本地身、大勢至菩薩、衆生教化故、来此界度度ト」


カノ僧正ノ弟子大進公(タイシンノキミ)、実名シラス、記之


この園城寺長吏公胤の弟子「大進公」をどう解釈したらよいのか、二つの選択肢がある。


  1. 公名が「大進公(だいしんのきみ)」という出家者である。 この場合は親鸞の父・有範が皇太后宮権大進であったときに有範の子息あるいは孫などの近親者の誰かが出家して公胤の弟子になったと推定される。

  2. 「大進公(だいしんこう)」と読むならば「祖・父・長老・年長者などに対する敬称」(『角川新字源』)である。 たとえば「内麿(うちまろ)公(こう)」というようなものである。 その場合は西方指南抄の著者である親鸞の父・藤原有範を指すことになる。 『改訂親鸞聖人行実教学研究所編』の「略系図」〈日野一流系図抄〉を見ると、有範は「皇太后宮権大進、正五位下、出家、号三室戸大進入道」と注記されているからである。 藤原有範が一時的にせよ「右兵衛督」になったのであれば、相当する官位は「従四位下」であるから、「正五位下」は正しくないが過飾ではない。

しかし親鸞自身が「だいしんのきみ」と振り仮名を付けたのであるから、「大進公」は公名(きみな)であろう。


『岩波古語辞典補訂版』を見ると、「きみな【公名】天台宗などで、未得度の児童に父の職名をとって大倉卿・治部卿・大納言などと呼んだ、その名をいう」とある。


親鸞は天台宗の慈円の許で「少納言の公(きみ)」と呼ばれた。 それで大進公(タイシンノキミ)を公名(きみな)であるとすると親鸞の弟たちの公名ではないかと思われる。 「略系図」〈日野一流系図抄〉の注記(171ページ)を見ると、範宴(慈円の弟子であったときの親鸞の法名)に続いて、尋有の公名として「大甫」・兼有の公名として「侍従」・有意の公名として「三位」・行兼の公名として「刑部卿」という四人の弟の「公名」が掲げられている。


「薗城寺長吏公胤僧正の弟子」であることから、聖護院(当時は三井寺園城寺の末寺)の門人である兼有と兼有の弟子である行兼の二人が候補となる。 しかし兼有は「侍従の公」、行兼は「刑部卿の公」という公名であったと記されているから当てはまらない。


親鸞が「実名をしらず」と注したのは、いわゆる韜晦であって、自分の身内であることを明かすることを遠慮しているのかもしれない。


結局、「大進公」が誰であるか判らないけれども、親鸞の父・藤原有範である可能性は捨てきれないと思う。 もしも「大進公」を親鸞の父と仮定すると、父が建保四年までは生存していたことになる。 この仮定を置くと、親鸞と恵信尼夫妻が信蓮房を伴って関東に赴いたのは建保二年のことであったから、親鸞が玉日との間にもうけた子女を京都に残していったとしても、後顧の憂いはなかったことになる。




第八節 経尹と範綱の父子関係


先に検討した遣迎院阿弥陀如来立像胎内文書は、経尹と範綱(のりつな)の親子関係を立証する一次史料であることを論じたい。


遣迎院阿弥陀如来立像胎内文書の一部分を左に抜粋した。


17行僧範母長快快円実印藤原信綱同祖父同範実
18行同範資惟宗□□円□□浄快律師□□河内照慶晴□

この史料から傍線を付けた経尹(祖父)―範綱(法名観真)―藤原信綱という祖父・父・子息の関係が記されている。


藤原信綱の次の「同祖父」は信綱の祖父を意味する。 すなわち『尊卑分脉』において「放埒人」と注された人物である。 すなわち経尹と範綱(のりつな)の親子関係を証明する史料である。


経尹は一部の系図で記入されずに、省略されている。 この遣迎院胎内文書においてさえ実名を記さずに「祖父」とだけ記入されている。 このことは経尹の孫でさえ引け目を覚える存在であったらしい。


経尹と範綱(のりつな)の親子関係ほど明瞭とはいえなきが、⑦3の14行~18行に集中して藤原有範、信綱と祖父(経尹)の名が記帳されていることは、彼らが同門であることを示している、つまり宗業、範綱と同じく、有綱も経尹の子息であることを裏づける史料である。


平有範は北面(または西面)の武士であって、検非違使であった。 藤原有範は右兵衛督、皇太后宮少進および大進など中宮職、主殿頭などの文官である。 親鸞の父は平有範ではなくて藤原有範であることは最早疑う余地はない。


第一章の結論


本章の第一節で、覚如の『親鸞伝絵』がいうように、親鸞の父が藤原(日野)有範であることに疑問を持つ少数の研究者が存在すること認めた。 そして一次的史料を用いて確定することが親鸞研究の基礎であることを強調した。


第二節で、九条兼実の日記『玉葉』の文治二年(1186)十月十一日の記事に見られる「右兵衛督有範」という人物が頼朝の代弁者である一条能保のいうままに優遇され、九条兼実がそれにしたがって勘解由次官で後白河院の院司でもある藤原定経に指示していた。 右兵衛督有範が右兵衛佐である頼朝の一時的な上司として利用されていたのである。


第三節の三鈷寺文書によって、藤原(徳大寺)実定が領家であった鶏冠井庄の預所である皇太后宮少進藤原某は鶏冠井庄預所の長官(大夫(だいぶ))であった。


第四節で、畑龍英氏は親鸞父・藤原有範が主殿頭に任官したことがあるとされた。


第五節で建久五年に成立した遣迎院阿弥陀如来立像に納められた交名の中に、藤原有範、藤原宗業藤原範綱の兄弟が見出され、藤原信綱の名が範綱(法名観真)の息男を示唆する位置に記入されている。 また頼朝が平家に逮捕されたとき自殺した義朝の娘・源氏夜叉を藤原有範が追善するような位置でその名が記入されている。


第六節で、藤原有範は元久元年(1204)から建保五年(1217)まで北条義時が相模守であった。 その期間中に藤原有範が相模権守になり、また親鸞恵信尼夫妻が信蓮房を伴って関東に赴いた。 つまり藤原有範は北条義時の部下になっていたのである。 なぜ藤原有範が北条義時の部下になったのか、藤原有範が源義朝の娘と結婚していたからである。 藤原有範は義朝の次男・朝長の同母姉(吉光女)を妻としていたから其の縁で相模権守になった。


第七節で、建保四年四月廿六日薗城寺の長吏公胤が、夢の中で空中に「源空本地身、大勢至菩薩、衆生教化故、来此界度度ト」いう声を聴いたことを後院の弟子大進公が記した。 大進公は親鸞の父・藤原有範である可能性がある。


第八節で、遣迎院阿弥陀如来像中の交名に、藤原範綱、藤原宗業、藤原有範、範綱(観真)の息男・信綱とその兄弟、筑前(恵信尼)、『覚禅鈔』の覚禅の名が見つかる。 信綱は範綱の子息である。


以上の論証によって、やはり親鸞の父は武士の平有範ではなくて、藤原有範であることが確かになった。


親鸞と父・藤原有範の家系を二人が生きた時代の文献によって調べると、二人とも日野家の出身であることが確定した。 そして『日野氏系図』の成立年代に関して研究者の見解が分かれているとしても、その内容は基本的に正しく、系図の中では最も古くて信頼できるものである。


日野家は八幡太郎義家のころから清和源氏と通婚していた。 しかも鎌倉幕府初代将軍源頼朝とも関係が深いことがわかった。 そして同時に、九条兼実とも密接な間柄にあることが明らかになってきた。


それで親鸞は比叡山では「善信房範宴」と名乗り、師の道快や同輩から「善信よ、善信房よ」と呼ばれていた。 人の名を呼ぶときは諱(いみな)の「源空」や「範宴」で呼ぶことは失礼に当たる。


親鸞は治承五年、平清盛が死去すると、まもなく慈円を戒師として出家させられた。 数え年九歳の少年が自分の意志で積極的に出家したとは考えられない。 そのとき親鸞は「少納言の公」と呼ばれた。 九歳の少年であった親鸞の周りには少納言という官職を持った人は見あたらない。 私たちは親鸞出家当時の「少納言」という「旧式の名前だけで実権伴わない官職」を有した人物ではなくて、当時の実務上の職である弁官であった日野兼光を親代わりにしたと考えられる。 親鸞の実父・日野有範は生存していたけれども、源義朝の娘である吉光女を妻としていた有範の存在を隠すために兼光を出家の猶父とした。 兼光の父・資長は源平の争乱のただ中にあって、日野家がこの乱世を乗り切るためには若い兼光の力が不可欠と考えたのではないか。 また以前から信仰深い資長は出家することを望んでいた。 兼光が日野家の指導者として最初に行ったことが、頼朝の甥である少年を出家させることであった。 清盛を失って「手負(てお)い猪(じし)」となった平家は京都にいた頼朝の縁者を逮捕する目的で家宅捜査を行っていた。 日野兼光は後白河院の側近であった範綱らと相談し、清和源氏の血を引く少年親鸞を出家させることによって、日野家は決して平家に敵対しないという誓約書を清盛亡き平家の総領宗盛に差し出したのである。 つまり親鸞は兼光を総領とする日野家の総意によって、生け贄として出家させられたと考えられる。


治承五年(1181)、三月十五日、九条兼実の実弟である天台宗の道快(後の慈円)が戒師として九歳の少年親鸞に「善信房」という「房号」と「範宴」という「法名(諱)」を与えた。


徳大寺実定と上西門院に仕えた女房備後との間に生まれた野宮(ののみや)左大臣こと藤原(徳大寺)公継(きんつぐ)は興福寺衆徒に遠流にせよと訴えられた。 源頼朝は上西門院と関係が深い。



 

 


 

 

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