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『選択本願念仏集』の論理と構造―法然の集合論―
『選択本願念仏集』の論理と構造―法然の集合論― [ 西山学会『選択集』研究会 (著)/Amazon ] 最近、西山学会『選択集』研究会が『選択本願念仏集』の論理と構造―法然の集合論―という、斬新な単行本を出版した。その内容を要約する。 一、『選択本願念仏… 続き≫
熊谷直実の「誓願状」と雄俊説話
熊谷直実の「誓願状」と雄俊説話―――――法然門下の思想と行動に見る中国往生伝説話の影響―――――湯谷 祐三1).熊谷直実は、残された種々の逸話に見られるその激しい言葉と行動によって、まさに専修念仏門に熱烈に帰依した鎌倉節の典型的人物として現代に伝承されてきたと言… 続き≫
〔論文〕『超』弱体化時代の、大学生の精神構造 ~生い立ち…
ファカルティ・ディベロップメント講演会2014年10月28日(火)16時45分~18時15分AUTホールにて『超』弱体化時代の、大学生の精神構造~生い立ちから探る彼らの深層~石原 峰志(心理学・精神医学)1. はじめにある中堅サラリーマンの方が言った。「最近は、若い人よりも年… 続き≫
〔論文〕甦る「信巻別撰説」
甦る「信巻別撰説」(平成30年11月26日、西山学会で発表)浄土宗西山深草派吉良潤問題の所在今回、結城令聞氏が提唱された「信巻別撰説」は基本的に正しいという説を提出して、親鸞研究者のご批判を乞う次第である。結城氏は親鸞が「信巻」を別撰した理由を知っておら… 続き≫
遣迎院の胎内文書交名帖から見た原平家物語成立史
遣迎院の胎内文書交名帖から見た原平家物語成立史 熊谷 かおり(平成30年3月24日)はじめに私は熊谷直実の子孫として、平家物語に登場する熊谷直実の描写に関心を持ち、その言動と行実を研究してきました。そして水原一氏の著書『平家物語の形成』において論じられた「熊… 続き≫
法然の高野山籠時期〔論文〕
法然の高野山籠時期長谷川浩文はじめに著者は、法然(1133~1212)が高野山に籠ったこと[1]と、九宗歴訪に出掛けた時期が従来言われていた法然24歳ではなく、法然38歳頃であること[2]の二点について研究をしてきた結果、何れについてもほぼ間違いないと考える。本論… 続き≫
『高野山熊谷寺略縁起』の文献批判〔論文〕
『高野山熊谷寺略縁起』の文献批判熊谷かおり(平成28年3月29日)第一章 円光大師見真大師熊谷蓮生御霊跡『高野山熊谷寺略縁起』『高野山熊谷寺略縁起』に次のような記述がある。建仁元年(1201)は、壇ノ浦で平氏が滅亡した年より数えて十七回忌にあたり、鎌倉将軍の… 続き≫
『楷定記研究序説』(其一)〔論文〕
『楷定記研究序説』(其一)著者:奥村玄祐(おくむらげんゆう)緒言平成二十六年春、愛知県岡﨑市岩津町にある真浄院(深草派)の蔵書を拝見する機会に恵まれました。当寺の蔵書は、先代住職奥村玄祐師の蒐集によるものと思われます。師は、当派において、昭和期を代… 続き≫
親鸞の流罪に縁座した歌人・藤原家隆〔論文〕
親鸞の流罪に縁座した歌人・藤原家隆(ふじわらのいえたか) [ 藤原家隆/wikipedia ]1、問題の所在と方法論問題の所在藤原定家(ふじわらのさだいえ)(「ふじわらていか」と呼び習わす)の好敵手として『新古今和歌集』の撰者の一人であった藤原家隆(ふじわらのいえ… 続き≫
浄音上人の著述と西谷光明寺の周辺〔論文〕
浄音上人の著述と西谷光明寺の周辺 [ 浄音上人/wikipedia ]著者:稲田廣演 はじめに 浄音房法興上人(以下、祖師の尊称を略す)は、周知の通り、現在まで西山浄土宗および浄土宗西山禅林寺派としてその法脈が続く西山派西谷義の祖である。しかしながら、現存する… 続き≫
證空の三門(行門・観門・弘願)は法然晩年の教説〔論文〕
證空の三門(行門・観門・弘願)は法然晩年の教説 [ 証空/wikipedia ]―法然が駆使した与奪門― 共著者:吉良潤/稲吉満了/加藤義諦 はじめに 我々は最近、法然の思想史の一端を研究する機会があったが、そのとき證空の三門(行門・観門・弘願)は、法然の『選択… 続き≫
『自筆鈔』における心眼の解釈〔論文〕
『自筆鈔』における心眼の解釈 [ 証空/wikipedia ]一はじめに 善慧房証空(以下、証空とする)は『自筆鈔』の中で、衆生の見仏について記している。そして衆生が見仏には、仏を観るための心眼が必要であると示している。このように、心眼とは、行者が心想の中で、正… 続き≫
末代念仏授手印と一枚起請文の邪義をめぐって〔論文〕
末代念仏授手印と一枚起請文の邪義をめぐって一枚起請文/wikipedia研究の目的通称『一枚起請文』には、本文の後に「添書」即ち「為証以両手印」以下「源空花押」までが付されてある。その終のところに「滅後の邪義をふせがんが為めに所存を記し畢(おはんぬ)」とある… 続き≫
建礼門院に先を越された西行〔論文〕
はじめに筆者は先回の論文「建礼門院が往生した時と場所」において、建礼門院が文治四年(1188)の二月十五日か十六日に法性寺で往生したと結論した。そうすると西行が文治六年(1190)二月十六日に入滅したという有名な故事が想起される。しかも慈円は建礼門院と西行… 続き≫
建礼門院が往生した時と場所〔論文〕
はじめに佐伯真一氏は『建礼門院という悲劇』(角川選書445、平成21年6月)を著わされた。 その「終章その後の建礼門院」の一節〔建礼門院の最期をめぐって〕の中で、建礼門院が往生した時と場所に関して、定説がないことを明らかにされた。 この点に関して筆者は一つ… 続き≫
壇ノ浦において建礼門院が入水した真相〔論文〕
はじめに角田文衛氏は論文「安徳天皇の入水」(『古代文化』二十七巻9号1975年所収)において、下のように論じられた。 一、日本の歴史を通じて元暦二年(1185)三月における安徳天皇の入水ほどいたいたしい、悲愴な事件は稀である。 言ふまでもなくそれは、三月廿四… 続き≫
高野山に籠った法然〔論文〕
はじめに法然(1133~1212)の史跡や伝承が、高野山に数々存在することがこれまでの研究で明らかとなった。(*1) 聖光房弁長(1162~1238)は、『念仏名義集』に顕真法印(1131~1192)・法然上人・明遍僧都(1142~1224)が高野山に籠ったと述べていることが明らかと… 続き≫
親鸞の父・藤原有範〔論文〕
「親鸞は頼朝の甥」代表執筆者:吉良潤第一章親鸞の父・藤原有範の出自第一節親鸞の父・藤原有範(一)現今の大方の親鸞研究者は、覚如が『本願寺聖人親鸞伝絵』(以下『親鸞伝絵』と略する)で述べたように、親鸞の父が藤原有範(ありのり)であることを認めておられ… 続き≫
九条兼実の娘・玉日は実在したのですか?〔研究ノート〕
最近まで、ほとんどの研究者は、親鸞聖人の妻は恵信尼一人であったと考えていました。しかし、真宗大谷派の佐々木正氏が平成九年(1997)に『親鸞始記―隠された真実を読み解く―』著わされました。その中で佐々木氏は『親鸞聖人正明伝』は存覚の著書であると断定されま… 続き≫
親鸞聖人の父は誰ですか?〔研究ノート〕
親鸞聖人の父が藤原有範であることは、多くの研究者から支持されていました。 しかし厳密に考える研究者は、その伝承の元になった覚如の『親鸞伝絵』あるいは『尊卑分脉』そして本願寺に伝わる系図等だけでは十分な根拠にならないと考えています。 私たちは親鸞聖人が… 続き≫
親鸞聖人の母は誰ですか?〔研究ノート〕
親鸞聖人の母は、源義朝と修理大夫中原範兼の娘との間に生まれた吉光女です。 中原範兼の娘は義朝の祐筆中原久経(近江国井口の出身)の養女になっていました。 そしてその縁で義朝と結婚したのです。 近江国の御家人中原久経は朝廷に仕えたことがあり、義朝の祐筆とし… 続き≫
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