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【筆者】 熊谷かおり (くまがい かおり)
『高野山熊谷寺略縁起』の文献批判 熊谷かおり(平成28年3月29日)
第一章 円光大師見真大師熊谷蓮生御霊跡『高野山熊谷寺略縁起』
『高野山熊谷寺略縁起』に次のような記述がある。
建仁元年(1201)は、壇ノ浦で平氏が滅亡した年より数えて十七回忌にあたり、鎌倉将軍の発願により、源平両氏の戦死者大追悼会を熊谷寺で行うことになった。法然上人がその特請に遭われ、九条兼実、親鸞聖人とともにこの山に登り、蓮生と源平十七回忌追善をした。そして一夏九旬の間、熊谷寺に滞在し、新別所にいた二十四人の蓮社友と交流した。
蓮生の高野聖としての活動、そして法然上人、九条兼実、親鸞聖人が高野山に登ったという記録は、現在まで信憑性を疑われてきた。確かに、後世に作られた伝承や遺跡もあると思われる。しかし可能性は否定できず、謎を解き明かす価値があると私は思っている。
そこで私は『高野山熊谷寺略縁起』のテキストクリティークを行う。先ず、その全文を掲げる。
『高野山熊谷寺略縁起』
当寺は円光大師・見真大師・熊谷蓮生(れんしょう)法師の御旧跡、新撰元祖大師二十五霊場第八番の札所であります。
当寺は桓武天皇皇子葛原(かつらはら)親王の御願因り承和(じょうわ)四年(837)に建立せられ宗祖弘法大師の法孫真隆阿闍梨(杲隣(ごうりん)大徳の高足)が初代住職であります寿永三年(1184)二月七日摂州一の谷に於ける源平の合戦に於いて敗れた平家方の将兵は友軍の軍船にのがれました。此の時遠浅の海に駒を乗り入れた武将を呼び返した熊谷直実は格闘数合やがて組敷いて首級をあげようとよく見ると一子小次郎直家と同年輩十六・七の美少年平家の大将参議経盛の末子(ばつし)敦盛でありました。
直実は同じ日の未明敵の矢に傷ついた直家の「父よこの矢を抜いてたべ」との願いを耳にするも敵中の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起こし敦盛の首を斬るに忍びず、しばしためらったのでありますが心を鬼にして首を掻き切ったのであります。かくて直実はほとほと世の中の無常を感じて発心し当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与へられ専心念仏の行者になったのであります。
建久元年(1190)は敦盛卿の七周忌に当たるにつき追福の法要を営まんと思い立ち師法然上人の指示に依り高野山に登り父祖の菩提寺であった当院に寄寓し敦盛卿の位牌及び石塔を建立し懇ろに敦盛の菩提を祈ったのであります。爾来十四年間山に留まり念仏に専心いたしました。
建仁元年(1201)鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会(ついとうえ)をこの山に営んだ時法然上人その特請に遭われ親鸞聖人及び圓證入道関白兼実公と共に登山一夏九旬(いちげくじゅん) の間当寺に留錫(りゅうしゃく) その頃新別所に於いて称名念仏していた二十四人の社友等と交誼(こうぎ)を交えながら衆生済度の大願(たいがん)を祈求(おいのり)されたのであります。
或る時御三方(おさんかた)庭前の井戸の水鏡(みずかがみ)にて各々お姿を写され自らその像を彫まれました。その御尊像を奉安してあるのが表門の横に在る円光堂であります。又法然上人は竜華三会(りゅうげさんげ)の暁にわが大師に値遇の良縁を結ばんが為亦末世道俗摂化(せつけ)の方便にもと五輪の石塔を奥の院のほとりに建立し自ら梵字を書し「源空」の二字を刻んで置かれました。上人の滅後弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられています。高野山円光大師廟というのはこの五輪塔の事であります。
蓮生法師承元二年(1208)九月一四日念仏唱え眠るが如く往生されました。その後直家は亡父の遺命により登山当寺の堂宇を改造修築して追考の法要を営みました。この事時の将軍実朝公の知るところとなり蓮生房の詠まれた「約束の念仏」の歌「熊谷寺」と書いた扁額を寄進されました。当時は元(もと)智(知)識院持宝院と号していたのをこの因縁に依り熊谷寺(くまがいじ)と改称し今日に及んでいるのであります。
弘長四年親鸞聖人の三回忌に当たり覚信尼公(上人の息女)聖人の遺命に依って御臨終の名号並びに御遺骨及び御母公玉日の前の木像を使者日野家の下条専右衛門頼一を遣して当寺に納められ且つ聖人が師の流れを汲んでかねて手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。
上述の如く当寺は承和四年創立以来ここに一千百有余年高野山の歴史とその運命を共にしてきたのでありますが明治廿一年三月当山大火あって当寺もその災(わざわい)に罹り堂舎悉く焼失したのであります。爾来先師の並々ならぬ努力により再建され逐次坊舎の増築するあり旧に倍する規模を呈するに至ったのであります。
これ偏に宗祖大師の御冥護(おまもり)と加ふるに上来御三方の御霊光の賜物と渇仰(かつごう)の微衷(びちゅう)禁ずる能はざるものがあります。冀(こいねがは)くは円光見真両大師の流れを汲み登山して弘法大師に竜華値遇の良縁をお結び下さい。篤信(とくしん)の善男善女希(ねが)はくは当寺に参籠して仏恩(ぶつとん)報謝せられんことを。
和歌山県伊都郡高野山
熊 谷 寺 現住誌
空海の歌が最初にかかげられているが、これが高野山の立場から付加されたことは明らかである。
また、文中「明治廿一年三月当山大火あって当寺もその災に罹り堂舎悉く焼失した」とあることから、このテキストは明治二一年以降の文書である。したがってこの文書は慎重に吟味する必要がある。すなわち安易に信用することができないことは勿論であるが、この文献を頭から否定することも歴史学の立場から早計であるといえる。なぜなら明治時代に高野山に存在した古文書を用いて編集された可能性があるからである。
そこでこのテキストにあるキーワードを検討する。
最初に「日野家の下条専右衛門頼一」の「下条」を調べる。
清和源氏の系図の一部分に、満仲―頼信―賴清―仲宗―仲清―盛清―為国―経業―仲盛と続き、この仲盛の子息に「下条家盛」と「上条仲基」がある。下条家盛と上条仲基の二人は下条と上条という地名を家名とした兄弟であろう。例えば藤原兼実を九条兼実というようなものである。この兄弟は下条と上条という地名を家名にしたと推定されるから、この二つの地名が近接して存在する地点を探すことが捷径であろう。
上条郷と下条郷が並んで解説されているのは『大阪府の地名Ⅱ』(日本歴史地名大系28平凡社)の「1226頁中」と「1227頁上」である。これらは和泉国にあった。
『和名抄』の上泉郷は中世以降は上条郷と称し、『和名抄』の下泉郷は下条郷と称した。
九条兼実は源頼朝の支持によって摂政となったので、兼実の配下には清和源氏出身者が多かった。また、親鸞は源頼朝の甥であり、親鸞の母・吉光女は頼朝の腹違いの姉であった(西山深草著『親鸞は源頼朝の甥ー親鸞先妻・玉日実在説ー』白馬社、参照)。したがって清和源氏の下条家盛と上条仲基が、親鸞の出自である日野家の下士であったことは信憑性があるといえる。
下条家盛―仲時―仲泰の三世代の生存年代を推定するには、後白河院判官代である下条仲盛の生存年代を参考するとよいだろう。後白河院は建久三年(1192)に崩御したから、下条仲泰は三世代九〇年下るとすると、1252年頃に生きていたであろう。西暦1252年は建長四年に当たる。親鸞が弘長二年(1262)に九〇歳で入滅したときよりも約一〇年遡る。證空と親鸞が共に京都にいた頃に下条仲泰が生存していたことはかなり確かであろう。「日野家の下条専右衛門頼一」は『尊卑分脉』・『系図纂要』に記入されていない。また、「下条専右衛門頼一」の名は『鎌倉遺文』等の書籍に発見できなかった。しかし、下条家盛の子孫である可能性は否定できない。
建長四年(1252)は後深草天皇、後嵯峨院、藤原頼嗣将軍、北条時頼執権の頃で、二月二一日九条道家が死去し、六月八日、後白河法皇皇女の宣陽門院が亡くなった。足利義政が将軍であった寛正(かんしょう)六年(1465)よりも二百年以上前のことである。
第一章のまとめ
『高野山熊谷寺略縁起』は明治時代に成立した文献であって、とうてい平安・鎌倉時代の歴史的事実を正確に記しているとは期待できないが、以上のように調査したところ、あながちに否定できない事実を載せていることがわかった。特に吉良潤氏が西山学会(平成27年12月11日)において発表した『法然、兼実、蓮生、親鸞による高野山上の歌会の信憑性』とよく整合する。すなわち一次資料である「恵信尼書簡」を研究した結果、法然、兼実、蓮生、親鸞の四人が建仁元年(1201)に高野山に登って歌会を催したという伝承は歴史的事実であるという結論と合致している。
第二章 『大念仏縁起』
阿部美香氏は「安居院唱導資料『上素帖』について」という論文を『金沢(かねさわ)文庫研究』(第326号2011年3月 神奈川県立金沢文庫)に発表された。
『上素帖』は安居院澄憲の表白のみを集めた表白集で、承久四年(1222)の書写奥書を有する。『上素帖』の紙背文書として「諸仏護念院言上状」がある。これは諸仏護念院の院主であった阿闍梨元智が、院主職の回復を求めて訴えた際の訴陳状であった。承久の乱に際し摂津国の守護となった鎌倉幕府有力御家人長沼五郎宗政により諸仏御念院が没収され、しかも宗政の淡路守への転任に伴い捨て置かれた状態になってしまったため、元のように元智が院主として寺務を行うことを認めてほしいとの訴えが記される。
現在、大阪市平野区にある融通念仏宗大本山大念仏寺は、良忍上人による開山の縁起を伝えており、院号を「諸仏護念院」と称する。大念仏寺の歴史は、鎌倉時代後期に法明上人によって中興される以前については明らかでなく、院号の由来も不明である。「言上状」が語る諸仏護念院こそ、大念仏寺の前身にあたる寺院であったと考えられる。宣陽門院は、後白河院が晩年に鍾愛(しょうあい)した皇女であり、莫大な長講堂領の継承者として知られているが、その「所領目録」には「御祈願所」の一つとして「諸仏護念院」の名が記され、その下に「不断念仏所、上西門院御祈祷所事、貞応(じょうおう)元年依寺供申状(くしんじょう)、政善法印被補院主職云々」と注記されている。阿闍梨元智の訴えが聞き届けられた結果、政善法印が院主職に就いたことが知られる。おそらく阿闍梨元智と政善法印は同一人物であろう。また諸仏護念院は上西門院統子の御祈祷所として創建され、上西門院から殷冨門院、宣陽門院へと継承された。御堂が建立された「味原牧(あじはらまき)」は、乳牛牧とも呼ばれた。その一角に諸仏護念院が建設され、近辺の淀川河口には、東大寺大勧進が迎講(むかえこう)を営んだ念仏別所である渡辺別所があった。
この縁起が中世の融通念仏宗の歴史のなかで確かに受け継がれ機能していたことを示す資料がある。それが、醍醐寺本『融通念仏縁起』である。
醍醐寺聖教(しようぎよう)蔵のうち「第二三八函の第六号」の番号に当たるものが『大念仏縁起』である。そしてその内容は『融通念仏縁起第二巻』の内容に似ている。その奥書だけを次に引用する。
次に右の漢文を読み下す。
次に書き下した『大念仏縁起』を現代語訳すると、次のようになる。
寛正六年(1465)は足利義政の在職期間の1449年から1473年の間に収まる。そしてこの年の11月23日、義政の妻・日野富子が義尚(よしひさ)を生んだ。足利義政は足利尊氏の子孫で清和源氏の一流であって、源頼朝および下条氏と同じく、源頼信(みなもとのよりのぶ)を共通の先祖としている(系図参照)。
また、親鸞は藤原有信の五代の子孫であり、藤原(日野)富子は藤原有範の一五代の子孫である。
第二章のまとめ
阿部美香氏は承久四年(1222)の書写奥書を有する安居院澄憲の表白集『上素帖』の紙背文書として「諸仏護念院言上状」を発見された。これは諸仏護念院の院主であった阿闍梨元智が、院主職の回復を求めて訴えた際の訴陳状であった。大阪市平野区にある融通念仏宗大本山大念仏寺は、良忍上人による開山の縁起を伝えており、院号を「諸仏護念院」と称する。大念仏寺の歴史は、鎌倉時代後期に法明上人によって中興される以前については明らかでなく、院号の由来も不明であったが、「言上状」が語る諸仏護念院こそ、大念仏寺の前身にあたる寺院であったことを明らかにされた。そして、鳥羽院、後白河法皇、上西門院の帰依と寄進を受けた。これらのことが歴史的事実であることを裏付ける醍醐寺本『融通念仏縁起』および『大念仏縁起』を解明された。
第三章 寺院建立の動機としての怨霊思想
梅原猛氏は著書『日本の伝統とは何か』(2010年2月 ミネルヴァ書房)「Ⅱ 聖徳太子と法隆寺」の章において、「法隆寺は怨霊鎮魂のために再建された」と主張された。私はこの説を念頭に置いて調べてみた。すると次のような歴史的事実が見出された。
梅原猛氏の「怨霊鎮魂説」と諸仏護念院建立の動機および社会情勢は正確に符合する。
結 論
以上のように諸系図を調べると、『高野山熊谷寺略縁起』は信頼できる古文書の内容を伝えているのである。 次の課題は『高野山熊谷寺略縁起』の底本となった古文書を捜すことである。
総まとめ
第一章及び第二章のまとめを総合したうえで、第三章の梅原猛氏の「怨霊史観」を援用すると、平安・鎌倉時代における法然教団の実態が明らかになる。すなわち法然門下は、その時代の皇族以下底辺の民衆に至るまでの人びとの心情を許容しながらも、同時に専修念仏を説いていたのである。
【発言や反論について】
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