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浄音上人の著述と西谷光明寺の周辺〔論文〕
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浄音上人の著述と西谷光明寺の周辺
[ 浄音上人/wikipedia ]
著者:稲田廣演
はじめに
浄音房法興上人(以下、祖師の尊称を略す)は、周知の通り、現在まで西山浄土宗および浄土宗西山禅林寺派としてその法脈が続く西山派西谷義の祖である。しかしながら、現存する著述は少なく、その行実にも 不明な点が多い。特にその住所として名高く、また門流の名称の由来ともなっている「西谷光明寺」につい ては、その跡地さえ明確ではなくなっている。本稿では、従来未紹介のものも含めて関連文献を集成し、浄音の著述と西谷光明寺の消長について考察してみたい (以下、本稿では〈 〉は引用文献中の割注 。 ( )、 は筆者の注を示す)
一 浄音の著述
浄音の生涯や著述については、森英純師による『西山全書』別巻第四(浄音上人全集)の解題に簡潔にまとめられているが、その後に発見された資料も少なくない。ここでは、『観経疏愚要抄』・『大経抄』・『註論刪補抄』の三部について、解題を補足したい。
1) 『観経疏愚要抄』
まず初めに、浄音の主著とされる『愚要抄』について述べる。『愚要抄』は、浄音門下の高弟たちが、師の未完成の著述の散佚を惜しんで整理公開したものである。その経緯については、『西山全書』別巻第四に収録された跋文が伝えているが、その奥書の典拠である「はなぶさ文庫本」(森英純師旧蔵書)を数代遡る写本によって、やや詳細が判明した。岐阜市清閑寺所蔵の龍空義道書写本がそれである。煩雑だが重要な記述であるから、その序跋を引用する。
【序】
凡例
△西谷上人『愚要鈔』仮名書一部十六巻、尾州檀林祐福講寺在譬中而、開山賢了上人真筆伝之写矣。但『玄鈔』紙数少在三五。其余亡之。以可憾処、以辨才和尚蔵本謄之。亦格定和尚蔵本以校之。都合而成十六巻也。且今抄巻数不定。依賢公一部六巻、依『西山祖讃』一部五巻、依有説一部八巻。又開板見『定(「序」か)分抄』分三巻也。今当流十六名為奇特尊之焉。往古以於簡牘二十枚為一巻。故為廿紙一巻而成十六巻也〈賢了上人巻分事、分上中下本末為六巻。其由、玄為上分本末、序定為中分本末、散為下分本末成六巻〉。
△題目名言、非一。賢公本、無別名「抄」言而已。又奥書在「光明寺抄」・「見聞抄」・「西谷抄」・「愚要抄」。開板『序抄』在「愚要」。西山格定師本、一巻無名、表書在「西谷愚要抄」、一巻「玄義分抄愚要下」有。辨才師本、一「愚要」、一「要秘」有焉。今題「観経玄義分愚要抄」。古来此題名知人普乎。蓋乃祖自題歟可察。故由此名親乎。
△今鈔、素無撰号。雖然、開板『序抄』顕「浄音上人」。今従之。祖所居、仁和西谷也。世挙称西谷上人流西谷流。殊在西谷選之。故滴流上人等見選号置為令知当流肝要之抄。亦重教法而謁乃祖之思乎。又於律家置始於撰号由。思諸故、顕「西谷新光明寺浄音上人記」。
△今抄、素不及再校考入滅故、侭多重言。或科段乱前後。時賢公本蠧魚■之半、多闕。或略字其形不詳也。又格定師本、意観上人校之。又云、以他本校之、不詳在也。『玄抄』、以二本正之、有増有減、互相違。或科段前後、又格師本、有闕標文。亦不載歳月日処也。弁師本、如賢公故為本。然両本共、所予得賢了上人本写。爾相違伝写多遍故歟。『抱朴子』云、「三写魚為魯帝為席矣」已上。予、賢上人雖写本、不能訂矣。白滴流上人等言、全本有秘蔵者、宜訂誤謬報祖恩矣。
△『玄抄』中、釈名下、有裏書云者二篇。一配定散門、一配得益、以同類故。又定散門中半、有序題釈。彼此一致不違故、閣之。又得益下、弥陀正覚有■半■。九観下、又有。九観 親故、立彼閣此。後人、莫生不審焉。『散抄』在為□地者。此蠧魚亡文字故、闕無之。在異本人訂之。
文化八年辛春三月十五日 菩薩僧 了空義道謹言
【奥書・跋】
書本云〈觀智・了音・觀性・眞道、此四人、音師入滅シテ後、此抄滅スルコトヲナゲヒテ四人和合シテ取■此抄ヲ門弟中ニ披露ス。■釈繁重成ルコト為之也。弟子ナレバ師ノ説ヲ蔵コトヲ恐テ、音師御自筆ノ侭■也。〉
讃州(この改行不要か?)
本云、同二月五日 一部結願畢 首尾四十四日也。
此見聞抄者、西谷上人淨音御房御自筆記之。未及再治入滅云云。不可他見穴賢々々。
春秋二十七才云云。
(中略 (註1) )
跋
吾祖 淨音大和尚製述若干部、所謂『観経』『大経』『論註』等諸鈔、及『三十通』『十七通』等諸篇、是也。皆吾宗之綱要而、『観経鈔』、其最者也。然茲鈔未嘗上木、徒属世旱渇矣。嚮者■師之任東海檀林祐福寺寺主也、取諸彼蔵中以属予曰、「是此淨音師之『観経鈔』而、吾開祖賢公之真筆也。嗟乎、已経四百余年星霜而、蠧魚半■之矣。爾、幸謄之、以公於世、則庶乎其不滅」矣。余曰、「聴命」矣。乃持来而熟閲之也、乃祖在西谷而、自建長元年至弘長元年十有余年間所載也。惜哉其未之能校考而示滅也。後称之「西谷鈔」。遺弟之■灯者、以此為本。觀公(行觀)記、蓋拠此以製之矣。今対此鈔、似親謁乃祖而、法然涙数行下。乃欽謄焉。第以久在蔵中■■爛然字形不詳。且『玄鈔』固闕為憾。是故就異本而是正。且借辨才和尚者之蔵『玄鈔』而謄之、以成其全矣。但恐魯魚混之。後哲其訂之云。
時文化第六年龍集己巳暮秋十五■皇城西山光明寺叢林下比丘龍(註2)空義道和南識。
『愚要抄』を公開した上足が、「觀智・了音・觀性・眞道」の四人であることは、ここで初めて知られることである。また奥書に見える「讃州」とは、その内の一人、眞道の住所であることが、義道著『浄土西山西谷附法祖裔』において証言されている。鵜木光明寺觀智・六角本願寺了音・広谷(粟生)光明寺觀性等、初期の西谷義を支えた錚々たる顔ぶれに次いでその名を記されていることは、浄音門下における眞道の地位を考える上で等閑視できない事柄である。
この識語によって、『愚要抄』の流伝には義道が大きく貢献したことがわかる。祐福寺闡空亮範の命をうけて、義道は同寺開山・達智賢了真筆の『愚要抄』を書写した。さらに辨才・格定両師の所持本と校合し、不明確であった書名・撰号・巻数を整備したのである。特に、後跋には手書きの匡郭を施してあり、出版をも意識していた可能性がある。
2) 『大経抄』五巻
書名が伝えられながら現存が確認されていない浄音の著作に『大経抄』五巻がある。粟生光明寺三十七世明空澤了の著『西山十二祖賛伝』や、同師が光明寺に寄贈した蔵書の目録(註3)への書名掲載が、江戸中期までの伝存を示唆している。更にこれを遡る文献には、僅かながら引用文が残されている。一つは、その一部が森英純師によって紹介された、明秀光雲の『無量寿経講録』慶長写本(西山短期大学所蔵)。もう一つは、智空撰『双巻経聞書抄』(西教寺正教蔵所蔵)である。
後者の引用文によって、『大経抄』の成立時期が想定できる。
第四十八至三法忍願事
師云。「設我」至「正覚」者、至三法忍ノ願ト云也。
(中略)
西谷御義云。第四十八至三法忍願、当今日讃嘆、奉読挙第四十八願、可備別御功徳。願云、「設我得佛、他方国土諸菩薩衆、聞我名字、不即得至第一第二第三法忍、於諸佛法、不能即得不退転者、不取正覚」文。是又標名号之徳願也、云云〈結願、正元々年之九月廿三日。此疏、文永十一年ヨリ次第シテ七代伝之也、云云〉。 (沙門智空撰『双巻経聞書抄』巻■)
すなわち『大経抄』は、『無量寿経』四十八願について一日一願を讃嘆し、正元元年(一二五九)九月廿三日に結願を迎えた講讃の記録と考えられる。時に浄音五十八歳。深草派顯意の『当麻曼荼羅聞書』(註4)のように、四十九日、乃至五十日間に渡る逆修法要の記録という見方もできる。
『双巻経聞書抄』冒頭に記された「沙門智空撰」という選号については、『愚要抄』の伝写識語に「貞和二年五月一日ヨリ同六月一日辰尅書之(中略)立政寺沙門智空生年三十三才」と見える。これによって「智空」とは立政寺開山・智通光居の別名と見なされているので、本書も師の著述ではないかと推定される。本文中に「武州云」として引用される四十八願の注釈について、「暦応年中、於武州聞所ヲ記也」と、暦応年間(一三三八~一三四二。智通二十五歳~二十九歳)に自ら講義を見聞したことを証言しており、年代的にも矛盾しない。なお、この「武州」が、永覺房智圓の大串談議所を指すか、吾妻系人師の談議所を指すかは明らかでないが、西谷義の相承を考える上で興味深い問題である。
3)『註論刪補抄』十二巻
寛文十二年(一六七二)西林寺四世・空覺慧仁住堂は、浄音著述の随一として『註論刪補抄』を開板した。従来も、その作者説には疑問が提示されていたが(『浄音上人全集』解説)、圓福寺三世堯惠『往生論註抄』の引用文との比較一致よって、本書の作者は知足院悟阿良喜(弘安六・一二八三年十二月十七日寂)であると推定できる。
堯惠『往生論註抄』
「註」者、法琳法師『弁正論』云 「言注解者、就之現義。述而不作之儔也。並立像以取形、即事 而出理。若生肇之註『浄名』、支陸之訓『般若』」 云云。註注見通用。述而不作義也 「巻上」者、上対下言也。釈偈頌為上、釈長行為下。異本「註巻上」三字無之。而悟阿『抄』略本為勝云 「注巻上三字属注主。此下書菩薩造似不宜 。」今云。 既是別行也。題目論与注次第之。撰号論主与註主 次第故。「並」字異本事、顕上畢。
「婆藪槃頭菩薩」事。至下悉之。
「曇鸞法師注解」事。異本云「沙門曇鸞」云云。
沙門者、作者自書也。 四沙門中汚道義故。 法師者、後人書之。崇敬義也。悟阿云、「沙門本為勝」云云。
(巻一、五丁表)
「其相別在下」者、一義云。如右点、謂第一清浄相、重在下也。一義云。如左点、相言総別二也。今総相也。 別相可有第二句量功徳以下也。下巻云、彼過三界有何相。下十六種荘厳成就相、是也」已上。
(巻二、二十七丁裏)
『註論刪補抄』
「註」者、法琳師『弁正論』云、「言註解者、就文現義。述而不作之儔也。並立像以取形、即事而出理。若生肇之註『浄名』、支陲之訓『般若』 」文。註与注通用歟見。或本、「註巻上」之三字、此題中略之。而「婆須盤頭菩薩造並註巻上沙門曇鸞注解」矣。与流布形木本相違。何以為勝耶。答。或本勝歟 「註巻上」之三字、属註主。此下「菩薩造」書似不宜歟。 又「法師」後人書。「沙門」自書。自書可信之義勝歟。
(巻一、九丁裏)
「其相別在下」。私云。右古訓也。如彼点第一相、重在下被得意也。左今点也。今此「相」字、 含惣別二義。「別在」下第二句已下別相也。故下巻云、「彼過三界有何相。下十六種荘厳成就相、是也」矣。
(巻三、十二丁表)
堯惠は、引用と断らずに依用するほど、多大な影響を受けている。両者には僅かな相違はあるが、この比較によって、堯惠が引用した「悟阿抄」が『註論刪補抄』であることに、ほぼ間違いは無いと言えるであろう。
この推定を裏付ける資料として、金沢文庫所蔵『古題加愚抄』紙背に、次のような借用状がある。
往生論一巻 同註論上巻
同珊(「刪」か)補抄註論上巻分
右、為白毫寺恒例九月念佛中訓読解説、所奉借請之状、如件
嘉元二年九月三日 靜會〔花押〕 (『金沢文庫古文書』仏事編、五三ページ)
以上の考察によって、『註論刪補抄』は浄音の著述ではないことが確認できた。しかしながら、決してその資料価値が低下するものではなく、依然『論註』の古注釈として貴重な存在であり、作者が悟阿良喜であると判明したことで、より一層、顧みられるべきであろう。
二 西谷光明寺と青蓮院の支配
従来、西谷光明寺は浄音の創建とされ、その歴代住持については、池田円暁師『続聚系譜』に収録された養福寺所蔵『浄土系譜』(西林寺空覚編纂か?)の記述が唯一の手掛かりであった。
西谷光明寺代々
浄音―了音―義勝―觀性―觀道―道空―專称―聖意
しかし龍空義道は、既にその著『浄土西山西谷附法祖裔』の中で、この伝承を否定し、西谷光明寺の開創とその伽藍について記録していた。
清閑寺所蔵の自筆稿本では、この詳細な記述が何に基いたものか明確ではないが、義道の盟友・照空顯義(物集女昌運寺十五世)の書写にかかる同書の草稿本『浄土西山西谷附法祖伝』(生瀬浄橋寺所蔵)の挿入箋によって、それが二尊院文書に依拠していることが判明する。
西谷別所光明寺諸堂次第
本堂〈丈六阿弥陀〉 毘沙門堂〈伝教大師御作霊像〉
鎮守〈日吉十禅師奉勧請〉
已上、本願恵奬阿闍梨〈慈鎭和尚門弟、後号求佛上人〉草創梵宇也。本体寺領智摂州稲井庄為僧三口并与宮等之料所〈青蓮院門跡領也〉。至寺務得分者、同御門跡領坂田庄内、代々被切(「仰」か)下也。此外、寺辺少田等、在之。本願置文、恒例臨時勤行等、一向顕密勤行也。代々世出共、所仰門跡御扶持也。
一曼陀羅堂〈当麻曼陀羅也〉 深心院〈近衛関白殿御墓所、修法華三昧〉
已上両堂、浄音上人之時、靡北政所御建立、光明寺領内也。近衛御領、丹波国宮田庄一村、越中国阿努庄等、有御寄進料■。供僧十二口、衣食承仕三人、并釈迦佛供灯明、善導御精進供等、被■之。而上人入滅後、尽被召返之間、条々皆以顛倒畢。南都一乗院御寄進法華堂西院少田一所、僅相残也。仍注進如件。
建武三年(一三三六)九月日 寺僧等
近衛殿御教書
曼陀羅堂、深心院両堂外、無御綺所見也。曼陀羅堂并御山事、如故道戒上人、無相違可令申御沙汰給所也。仍執達如件。
正応元(一二八八)十二月七日 権右中弁仲兼
これらの記述により、いくつかの新事実が判明する。まず、西谷光明寺を創建した初代住持は、慈圓の門弟・求佛房恵奬覺薀であった。彼は安居院澄憲の子で、法然の中陰二七日の導師を務めている (註5)。したがって浄音を西谷光明寺の「開山」と呼ぶのは誤りである。ただし、光明寺住持を務めていないとまでは言いきれない。
西谷光明寺には、浄音の時代に、当麻曼陀羅堂と「深心院」と呼ばれる法華三昧堂(近衛基平の廟所)が整備された。浄音の没後は、その門下道戒が両堂宇を伝持したが、前掲建武三年文書によると、近衛家の援助が得られず、徐々に衰微していったようである。この二つの堂宇が、西山派西谷義の拠点であったと見られる。
本来、光明寺は「西谷別所」と呼ばれた天台宗青蓮院系の末寺であり、西谷義の人々が住した曼陀羅堂・深心院は、その塔頭的存在ではなかったか。そこに浄音とその門下が居たという事実は、法然が、慈圓の世話によって、青蓮院の支配する吉水や大谷に住し、證空も同じく慈圓より西山往生院を譲られた事と関連し、初期浄土宗、中でも西山派と青蓮院の親密な関係が窺われる。
一方、西谷光明寺の寺務は、求佛の後も引き続き青蓮院系の人師によって伝持されていった。
文和三年(一三五四)四月十五日 権大僧都 判
謹上 威徳院御房 (『華項要略』巻八)
「威徳院」とは、尊道法親王の天台座主就任と同時に祇園別当に補任された「威徳院大納言法印隆靜」 (註6)である。彼は青蓮院執事をも務め (註7)、「隆靜法印宗舜」と名乗っている (註8)。文和三年(一三五四)四月十五日に二品親王尊圓の命により光明寺住持となった隆靜は、その四年後に塔頭深心院の支配権を主張した。
十月十二日、丁丑、晴、深心院法華堂事、一品、今日、返給文書、彼状云、法華堂事、披見訴陳之処、四条大納言(隆蔭)奉行、依為隆靜法印縁者、申子細之間、公庭御沙汰、被閣之由、崇空上人令申歟、然者、彼隆靜、一品外曽祖父隆廉卿兄弟也、可為退座之分限、仍不及注進、所存返進文書、於公庭訴訟為同篇者、一事両様沙汰、不可然歟、可被相待彼落居哉之趣也、其理尤可然乎、
十三日、戊寅、晴、深心院法華堂事、与光明寺不可各別歟、彼寺務事、公庭被経御沙汰上者、落居以前、為私成敗難治之由、仰訴人畢
廿日、乙酉、晴、西谷法華堂事、先日成敗之趣、殊更被載御教書可給之由、隆靜法印申之、仍可書遣之由、仰信兼了、
(近衛道嗣『愚管記』延文三年記。人物の比定は、『大日本史料』に拠る)
曼陀羅堂・深心院の扶持から遠ざかっていった近衛家ではあるが、いまだ少なからぬ関わりを持っていたようである。隆靜と崇空、僧侶二名による深心院の支配権をめぐる争いに、道嗣が心を痛めている様子が窺える。道嗣は、問題解決のために勧修寺経顯に相談を持ちかけたが、経顯は隆靜の血縁であることもあって、「発言を控え、裁判の行方を見守りたい」と返答した。
この時、隆靜に対抗した「崇空上人」とは、二尊院六世崇空深惠(永和四年五月二十四日示寂)であろう。崇空は深心院に葬られた近衛基平の孫であり、傍流ながら近衛家の人間である。義道の見た「西谷諸堂次第」が二尊院に蔵されていたことからも、深心院と二尊院の関係の深さが窺われ、崇空による両院兼帯の蓋然性は高い。
この訴訟の結果、「深心院法華堂の事は、光明寺と各別なるべからず」との裁定が下った模様で、隆靜は近衛道嗣に御教書を要求した。深心院を創建した近衛家に、改めて青蓮院による支配を認めさせたのであろう。こうして深心院は、光明寺住持の直轄となった。
一方、二尊院は、崇空の跡を深草義の境空法位道雲が継いでいる。崇空の法脈は、事実上の二尊院開山・正信房湛空の系統(一名、嵯峨門徒)と思われるが (註9)、深心院や二尊院をめぐる浄土諸流の勢力図は、俗縁とも絡み合い、相当に複雑化していたのではないだろうか。
法位は、北朝の重臣・洞院公賢の実子である。父の権威によってか、遣迎院・浄橋寺・歓喜心院(龍護殿)・竹林寺という西山派の由緒寺院を次々と兼帯していった (註10)。当時は、法位の師・雙求道宗(足利尊氏の従軍僧)が同門の兼空道朝(北畠大納言の甥)と深草眞宗院の支配権を争うなど、深草義の法流も混迷を深めていた。やがて、法位と父を同じくする辨空示鏡 (註11)を通じて、二尊院以下の諸寺は本山義の傘下に入る (註12)。證空以来、京都に勢力を張っていた西山派諸流も、南北朝動乱の時代、その政治的動向と無関係ではいられなかったのである。
そして、世の中が落ち着きを取り戻した南北朝統一後も、西谷光明寺は青蓮院系の人師によって相続されていった。
九月三日、威徳院法印、以西谷光明寺寺務職譲与於法輪院法印之正文
西谷光明寺寺務職事。此間管領無名候。仍譲与了代々勅裁并本願置文等正文、悉副与之。更不可有他妨哉。仍為後日譲状、如件。
応永十九年(一四一二)九月三日 法印花押
法輪院法印御房
しかし、西山派西谷義と西谷光明寺との関係が無くなったわけではなかった。正長年間(一四二八~一四二九)洛陽常楽寺開山・相嚴顯海が西谷光明寺に遊学しているのである。常楽寺(京都市裏寺町)所蔵の『雲松山常楽寺興起』は、寛文七年(一六六七)十八世舜空義典によって著された同寺の由来であるが、開創に関連して開山相嚴顯海の事跡が詳細に述べられている。
応永(一三九四~一四二八)に東関の辺境を出て笈を曼陀羅寺に〈尾州〉負ひ、亦、稽古の扉を閉じ、吉水の流に心を澄す。正長(一四二八~一四二九)に花城に趣き、浄音の旧跡西谷に学〈嵯峨光明寺〉。師、此に論鼓をたたくときは、学侶、耳をすまし、彼に法旆をあぐるときは、大衆、目を悦しむ。夫より法を洛陽に専にし、永享(一四二九~一四四一)に当寺を開基す〈大炊御門油小路〉。けだし西谷の窓の前には筆を『曼陀羅の注抄』に染め〈十二巻〉、当寺の室の内には意を『宗要秘奥抄』に記〈十四巻〉。
同書には正長元年(一四二八)顯海三十一歳の時、吾妻善導寺三世・妙静光融の代講を務めたという記事もあるが、妙静は同年三月二十九日八十歳で示寂している (註13)。顯海は、師匠の入滅を期として更なる研鑚を志したものと思われる。そして西谷光明寺に学んで、『曼陀羅註抄』十二巻(未伝)を著し、男山八幡にて浄音作と伝える『浄土真宗口伝』を発見、流布させるなど (註14)、西山派史上「西谷義吾妻系の京都進出」 (註15)と呼ばれる画期的展開の一端を担っていく。
現在のところ、これが西谷光明寺についての最後の記録であり、以後の消長を伝える史料は見つかっていない。江戸末期に前禅林寺靈空是湛が調査した時には、既に跡形もなかったようである (註16)。あるいは、顯海留錫から約四十年後に起きた応仁文明の大乱によって廃絶に追い込まれてしまったのであろうか。遺憾ながら、今はその最後を知る術はない。
註釈 | |
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註1 | 『浄音上人全集』とほぼ同文。ただし、年数改などは、義道が本書を書写した文化六年を基準に計算されており、文化六年の書写奥書以下の文言はすべて義道の創案と推定される。 |
註2 | 「了」を見せ消ちして「龍」とする。この直後に「了空」から「龍空」へと改名したか。 |
註3 | 拙稿「享保二年板『阿弥陀経私集鈔』解題」『深草教学』第二十二号、参照。 |
註4 | 浄土宗西山深草派『顯意上人全集』第一巻所収。 |
註5 | 『尊卑分脈』・『法然上人行状絵図』巻三十九。『円光大師行状画図翼賛』(『浄土宗善書』巻十六、五七四ページ)には「求佛房ハ澄憲法印ノ息、仁和寺ノ僧ナリ。理覺上人ト号ス。明遍僧都臨終ノ時、善知識トナリシ人ナリ」とあるが、現行の『尊卑分脈』によれば、理覺は求佛房の兄弟である。系図の注記を誤認したものであろう。ただし良忠『浄土宗要集』巻第四(『浄土宗全書』巻十一、八三ページ)によれば、求佛房という人物が、高野山蓮華谷に住した空阿明遍の臨終の善知識であったことは確かなようである。 |
註6 | 『天台座主祇園別当并同執行補任次第』。 |
註7 | 『祇園執行日記』観応元年三月二十三日。 |
註8 | 『円太暦』康永四年八月九日条。 |
註9 | 『二尊院伝持次第』・『尊卑分脈』。 |
註10 | 『仁空置文』・『尊卑分脈』。 |
註11 | 仁空實導門下、二尊院十一世、参鈷寺十二世。 |
註12 | 『二尊院伝持次第』・『仁空置文』。 |
註13 | 『浄土宗三国伝来血脈譜』。 |
註14 | ただし、『浄土真宗口伝』が浄音の真作か否かは検討の余地がある。本書は江戸後期、常楽寺に学んだ俊鳳妙瑞によって再発見され、髙空寶幢・蘭空卍秀等の門弟に伝授された。岡崎市真浄院所蔵写本参照。 |
註15 | 上田良凖氏「室町期における西山西谷義吾妻教系の京都進出」『印度学佛教学研究』一一―二、一九六三。 |
註16 | 『西山上人伝報恩鈔』。 |
浄音と西谷光明寺に関する略年譜 | |
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建久四年(1193) | 三月十三日、鎌倉幕府、後白河院の一周忌にあたり、千僧供養を修す 「阿闍梨求 。 佛 、百僧を従える「一方頭」を務める。 |
正治二年(1200) | 正月二十四日、惠奬、慈圓より灌頂を受ける ( 華頂要略』門首伝第三) |
建仁二年(1202) | 浄音、生まれる。 |
元久元年(1204) | 正月五日、源通継朝臣(浄音俗名か?)、従五位下に任じられる。(『明月記』) |
建暦二年(1212) | 正月二十五日、源空法然、示寂。二月九日、法然中陰二七日にあたって、求佛房、導師を務める。 |
建保四年(1216) | 正月五日、源通継朝臣、承明門院より従五位上を賜る。 |
承久三年(1221) | 正月五日、源通継朝臣、兵部大輔を辞し、従五位上に任じられる。(『玉蘂』) |
嘉禄元年(1225) | 慈圓、近江国坂本小嶋坊にて示寂。七十一歳。證空、聖増(隆寛実子)等、臨終の善知識を勤める。(『慈鎭和尚伝』) |
寛喜元年(1229) | 浄音二十八歳、證空と実信房の関東遊化に觀鏡・觀智等と共に同行し、美濃に大徳院を建てる。(『浄土宗三国伝来血脈譜』・大徳院寺伝) |
嘉禎元年(1235) | 三月五日、安居院聖覺、示寂。六十九歳。 |
仁治四年(1243) | 二月一日、證空とその門下、浄土三部経・『梵網経』・『観経玄義分』等を頓写し、結縁交名と共に静坊本尊阿弥陀如来像に納める。浄音、『無量寿経』巻下を書写。(大山崎大念寺文書) |
寛元三年(1245) | 七月七日、東山義祖證入觀鏡、示寂。五十歳。 |
宝治元年(1247) | 四月、道覺法親王、天台座主となる。十一月二十六日、證空、示寂。 |
建長二年(1250) | 正月、この頃、浄音四十九歳、西谷光明寺において『観経疏』披講を始める。講義期間は弘長元年(1261)までか?(『愚要抄』) |
正元元年(1259) | 九月廿三日、浄音五十八歳、『大経』四十八願を一日一願当て讃嘆し、この日、結願を迎える。この記録、未伝の『大経抄』五巻か?(智空『双巻経聞書抄』) |
文永元年(1264) | 五月三日、嵯峨義祖證慧道觀、示寂。六十歳。 |
文永二年(1265) | 七月五日、了音、大宮六角本願寺にて『観経疏』披講を始める。(『六角抄』) |
文永四年(1267) | 三月十四日、近衛北政所(藤原仁子)、西郊西谷光明寺において善導忌日に管弦講を行う。これを「光明講」という。( ) |
文永八年(1271) | 五月二十二日、西谷義祖法興浄音、示寂。七十歳。(『浄土宗三国伝来血脈譜』) |
弘安七年(1284) | 四月十八日、深草義祖圓空立信、示寂。七十二歳。 |
正応元年(1288) | 十二月七日、近衛殿、西谷曼荼羅堂および深心院法華堂について、故道戒に倣って経営するよう御教書を発行する。(浄橋寺所蔵『西山西谷附法祖伝』挿入箋) |
永仁五年(1297) | 三月~九月一日、西谷草庵にて『愚要抄』が書写される。 |
徳治二年(1307) | 六月十七日、二尊院二世永空正覺、示寂。七十九歳。(「二尊院伝持次第」『尊卑分脈』) |
延慶元年(1308) | 正月二日、二尊院三世尋慶理覺、示寂。四十歳。(「二尊院伝持次第」) |
正慶元年(1332) | 五月二十九日、二尊院四世湛惠理性、示寂。四十二歳。(「二尊院伝持次第」) |
建武三年(1336) | 九月、西谷光明寺寺僧、「西谷諸堂次第」を記して、青蓮院と近衛殿の扶持を仰ぐ。(浄橋寺所蔵『西山西谷附法祖伝』挿入箋) |
康永二年(1343) | 六月二十四日、二尊院五世修覺、示寂。五十六歳。(「二尊院伝持次第」) |
文和三年(1354) | 四月十五日、尊圓親王、威徳院隆靜を西谷光明寺々務職に任ずる。(『華頂要略』) |
延文三年(1358) | 五月二十四日、二尊院六世崇空深惠、示寂。(「二尊院伝持次第」) |
応永十九年(1412) | 九月三日、威徳院隆靜、法輪院法印に西谷光明寺寺務職を譲る。(『華頂要略』) |
正長年間(1428~) | 相嚴顯海三十一歳、西谷光明寺に遊学。(『雲松山常楽寺興記』) |
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